ごきげんよう! さわこです。

春らしい日和かと思えば、冷たい風が。
行きつ戻りつ、季節は春に向かっていく。

今朝は、月に二回の朝祷会の日。
まだまだ、冬の分厚いコートも長いブーツも手袋も、頭をすっぽり包むスカーフも手放せない。
教会まで20分ほど、自転車で走る。

その道中が、神様のみこころを思いめぐらせ、神様に語り掛けるひと時である。

時には、確認すべき信号を見落としたり、別の信号を見てしまったり・・・。
クラクションを鳴らされて「ごめんなさ~い」と頭を下げて走り抜ける。
赤信号なのに、右も左も全く車がやって来ないときには堂々と信号無視。

道中、神様にお尋ねしていたことは、以下のようなことであった。

私たちクリスチャンが、思いや、行動や、発言の基とするのは、み言葉である。
クリスチャンになったばかりの頃にはその御言葉の蓄えもまだまだ少なかった。

そんな中で「神様に喜ばれる行為か発言かを判断基準」とするためには「優しく、柔和に、親切に、どのような相手であれ、相手を尊重するように、決して自分が正しいのだと思わないこと」それを実行していれば、及第点。そのように思っていた。

自称性格のきつい人は「聖書を知って洗礼を受けてからは、柔和になった。夫婦喧嘩をしなくなった」という証しをなさる。

私は自分に自信が無くて、いつも相手の言うことの方がきっと正しいのだ、と思う傾向が強かったから、自分の意見をなかなか言えなかった。

しかし、聖書を学んでいるうちに、自分の意見を言えるようになってきた。
相手を尊重するとは、相手の方が正しいのだと思うことではない。
心の内で反論しながら、口では同調することは、相手を尊重しないことだと思うようになってきた。
かえって相手に不誠実なのではと思うようになってきた。
いつしか、言いたいことを言える私になって行ったのである。

「私は自分に自信がない」と言うと、「意外!」「ちっともそうは見えない!」「あなたははっきりと自分の考えを遠慮なく言える人だ!」との反応が返ってきて驚いてしまう。

イエス様を知ることで、性格の強い人は柔和な人になり、私のように優柔不断な人は強い人になっていくのだろうか。

「そこまで、はっきり言う?」「もっと穏やかな言葉を選んだらいいのじゃないの?」とまで、人に思われるような発言をするようになってしまった。

今では、静かで柔らかい物腰の人とは、誰も思ってくれなくなってしまった。

さて、御言葉の蓄えが増えてくると、一つの御言葉だけを掲げて、発言したり、行動の裏付けとしたりすることができなくなってきたのである。

別の御言葉が思い出されて、あるいは対極にある御言葉までもが思い出されて、私の発言が過激になってしまうこともある。
持って回った上品な言葉選びをしていたら、本旨が伝わらなかったりもするからだ。

しかし、「各自が神様によって思い起していただく御言葉の違い」は如何ともしがたいのだ。
どちらが正しいのか、どちらが適切なのか、神様以外には判断できない。


私は今まで「その御言葉の適用は、この場合にはふさわしくないのではないか」などと、不遜なことを何度となく言ってきたように思う。
それで良かったときもあれば、良くなかったときもあったに違いない。
どれだけ、多くの人から、許されて生きてきているかということなのだ。

そこで、だ。
どちらが適切なのかは、誰にもわからないのである。
だから、黙して語らないのが誠実なのか、
だから、敢えて語るのか誠実なのか。
それもわからないのである。

かつての私は涙とともに自分の意見も飲んで多数決に従ってきた。
気づけば、一人だけ浮き上がろうとも「私はこう考える。これは思い付きではない。私の祈りの、途中経過ではあるが、祈りの結果である」との確信を持って発言するようになってきた。

後になって「私が間違えていました」となるのかもしれない。
あるいは「あなたが正しかった」となるのかもしれない。
どちらに転んでもいいのである。

かつて私は誰からも「良い人ね」「さすがクリスチャンだわね」と思われたいという意識が過剰だったように思う。
人の目を意識していたのだと思う。
人の考えるクリスチャン像に捕らわれていたのだと思う。

私たちの為すことは、いつもパーフェクトではない。
しかし、それぞれの今、与えられている光(つまり、み言葉の蓄え、信仰の度合い)に応じて、どれだけ誠実に尽くすかということなのだ。


神様は信仰の度合いや、御言葉の蓄えに応じて、私たちを差別なさるお方ではない。
私たちがいかに誠実を尽くそうとも、私たちの不完全さはなにより神様がご承知だ。
後は神様が働いてくださるのだ。


私たちの信仰が薄くても、濃くても、今、与えられている光に忠実であることを良しとしてくださるのだ、きっと。

コリント第二8:12「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるものです」

今、自分に与えられている光をパーフェクトと思ってはならない。
今、自分に与えられている光を、過信してはならない。
神のみ前に、自分が小さき者であると、相対的に自分を見ることができることそれが大事なのだ。
それが謙遜ということなのかもしれない。


神は、不完全であっても、イエスをわが主と告白する者を用いてくださる。
私たちの不足を神様は承知していてそれを補われる。
神様にはその力がおありなのです。


そういうことを考えながら朝祷会に向かったのだった。
朝祷会で頂いたメッセージは、その続編であり、結論であった。

コリント第一の手紙12:1-11「霊の賜物」についての解きあかしであった。

マラナ・タ

朝祷会への備えをさせてくださった主よ。
今の私が一番に求めているものを知っていてくださった主よ。
ありがとうございます。