ごきげんよう! さわこです

葉室麟 著「風の軍師 黒田官兵衛」を読み終えた。

多くの作家の書いた黒田官兵衛は、キリスト信仰を棄ててしまったという見解のようで、あの時代のキリシタン大名は、海外貿易の富が目当てであったという見方である。

ところが葉室麟の書く官兵衛は徹頭徹尾、キリスト信仰を棄てなかったとの角度から筆を勧めている。
大河ドラマの官兵衛とキリスト教との関係はさらっと扱っていた。
役者岡田准一びいきの私は、それでも、黒田官兵衛の魅力にとらえられた。

しかもなんと、本能寺の変とは、官兵衛が明智光秀を巧みに誘って謀反へと導き、手に負えぬ暴君となった信長を殺したのであったというストーリー。

その策謀はうまくいったが、入れ替わって天下人となった秀吉もまた、権力を手に握るなり変貌した。

官兵衛は若いころから多くのキリシタンたちと親しく交わっていたが、1584年頃、秀吉の朝鮮侵攻前に入信した。
洗礼名はシメオン。
またこのころから如水という号を用いるようになった。(官兵衛の入信時期は諸説あるが)

官兵衛の50歳ごろからの事業は「秀吉はキリシタンの敵だ、討たねばならぬ」という決意の実現であった。
そういう官兵衛は細川ガラシャなどのキリシタンが最も頼りとする存在になっていた。

織田信長の嫡男信忠の嫡子、秀信(さんぼうし。秀吉が天下をにぎるためにうまく利用された幼児)はキリシタンになって、岐阜殿と呼ばれ美濃13万3千石の大名となっていた。

自分を神といった信長の直系の孫がキリシタンになっていたのである。
この事実は知らなかった。

また、如水の名前の由縁は、josuiジョスイ はポルトガル語ではjosueジョスエと読み、モーセの後継者となるヨシュアのことである。

ヨシュアは預言者であり、戦士であり、イスラエルの民を率いて難攻不落の城塞都市エリコを陥落させた。

キリシタン大名、キリシタンたち、宣教師たちは、如水と聞いて、すぐにヨシュアだとわかったのだ。
しかし、如水(水のごとし)と言う名前は禅宗の思想で理解しやすい。

キリシタンから禅宗の仏教徒に改宗した、本来の日本の宗教に戻ったと思わせつつ、堂々とキリシタン表明をしたのだ、さすが策謀に長けた官兵衛よ(笑)

武士の官兵衛が戦士でもあるヨシュアの名前から如水と名乗ったのは、官兵衛の心情が伝わってくるようだ。


何故、光秀は信長に反旗を翻したのか、多くの歴史研究家や時代小説家が謎解きを試みている。本当のところはなかなかわからないのだから、作家たちは多くの資料をもとにドラマを組み立てていくのだ。

クリスチャンが読むとたまらなくわくわくする時代小説だった。

私は司馬遼太郎が好きだった。
ほかの時代物では山本周五郎、藤沢周平(母が好きで読み終えると回ってきていた)浅田次郎(貸してくれる友がいる)や最近のものでは畠中恵の「しゃばけシリーズ」(これは本好きな友人が、私の入院中に貸してくれた)。

そういえば、吉川英治の「宮本武蔵」も若い頃、夢中になった。
最近では小説類をあまり読まなくなったけれど、葉室麟さんの本で、久しぶりに時代小説の面白さが思い出された。

自宅の本棚を見ると、歴史小説の好きな夫の本がこれでもか、これでもかと並んでいる。
私が読んでいない本も多い。

ぼちぼち読んでいきたいと思うが、聖書関係、信仰書、そのほかにも読みたい本が次々とあって、テレビに関心がないので、読書の時間を確保できるのだが、いやはや、忙しい(笑)

マラナ・タ
年齢を重ねるにつれて、読書が苦痛になってくるという話を聞く。
いま、読みたくて仕方のないこの時期を大切にしたいと思う。