ごきげんよう! さわこです。

もうかれこれ20年くらいは前になると思います。
ローマ12:21、22
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。

を読んでいる時に、「燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」の語の意味がわからなくて牧師に尋ねたことがありました。

その時代の牧師は「敵意を焼き尽くす」と説明し、バークレーは「燃えるような恥を気づかしめる」と書いており、次の時代の牧師は「良心の呵責を引き出すことになると言う意味」。また次の時代の牧師は「神のみ前において、恥に気づく」と。
これは全部、私の新共同訳聖書に書きこんであります。


それぞれの解説は納得いくものでありますが、それでも、喉に魚の骨がひっかかったような感触を拭い去ることができませんでした。

聖書の行間をうまく解説してくれているEGホワイトの著作集には全く触れられていないということも、私の気持ちを落ち着かせなくしました。
聖書の引照にも「燃える炭火・・・」に当たる聖句は引かれていませんでした。

そこで、ローマ12:9-21を繰り返し読みました。
この章で引照された聖句の箇所もすべていちいち調べました。
また、それ以外でも「炭火」という語句に関するところには敏感になっていくようになりました。


時に言われることがあります。「複雑に考えすぎるな」と。
そこにサタンが働くと。
「素直に書かれたことを受け止めたらいいのだ」と。

神様のおっしゃりたいことは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」12:19に尽きるのです。

しかし、そこを「炭火を頭に積む」という表現をなぜ用いる必要があったのか、という問題が大きくのしかかっていたのでした。
神様から正解を頂いたにも関わらず!


そこが、私のめんどくさい性格というか習性なのでしょうね。
素直でないとか、疑い深いとか、重箱の隅を突っつくように小うるさい質だとか・・・
自分で、自らをそういう皮肉っぽい目でみてしまいます(笑)

本人ですら、そうなのですから、周りに人たちにはどれほど不愉快な迷惑をかけてきているのでしょうか。

聖書の分かち合いの時にも、ガイドの学びの時、祈祷会の時にも、私が加わるだけで
「ありがたいわねえ」「感謝ねえ」「私たちって赦された罪びとなのよ、感謝ねえ」「わたしってだめねえ、でも愛されているし、守られているし感謝ねえ」「わからないところは天国で教えていただけるから、こだわらなくていいのよ」
という会話に「待った!」をかけてしまうのです。

それでも、私の個性を面白がってくださる方や、私のこだわりから、「思わぬお宝発見!」だと、共に喜んでくださいますので感謝しています。
つまみだされない(笑) 有難い限りです。

さて、安息日学校聖書研究ガイド箴言8課2月17日火曜日に
「箴言25:21,22は、敵の頭に炭火を積む(後悔や回心を表明するエジプト人の儀式)という比喩を用いて同じ諭を強調しています」
という記述があるではありませんか!

なんだ!そうだったのか!
エジプト人の儀式の比喩だったのね!
イスラエル・ユダヤとエジプトとの交流は深く長いです。

格言、ことわざ、比喩 それらは、その国の文化・習慣・因習などがわからないとピンときません。
ようやく納得!
20年来の魚の骨が、ようやく胃袋にまで落ちていきました。
今期の安息日学校ガイドの56ページを、私ほど喜んだ信徒はいなかったのじゃないかとさえ思います。
もし、同じような信徒がいたなら、きっとよき信仰の友になると思うわ。
ご一報くださいませ(笑)(笑)(笑)

マラナ・タ

尋ね求める者に必ず応えてくださる主を讃えます。
ハレルヤ