ごきげんよう! さわこです

20年ぶりに遠藤周作の「沈黙」を読み返した。
教会の若いお母さんから「持っていたら貸してほしい」と電話があった。
学生時代に読んだ単行本は行方知れず、クリスチャンとなってから読み返したくなって、確か文庫本を買っていたはず・・・本の断捨離も2度していたから、残っているかと、はらはらしながら本棚を調べたら、ありました!
お貸しするまでに1週間ほどあったから、この機会に読み返すことにした。
日常の合間あいまの細切れの時間を見つけて読み切った。

かつて、一番印象深かったのは、踏み絵のイエ様が「私を踏んでもよい」と語ってくれたところだ。
今回も、同じくそこには深い感銘があったが、青春時代と信仰を持って間もない頃の印象が、今回はちょっと違ってきたのだ。

一言でいうなら、キリスト教(ローマカトリック教)の教えと宣教方法がこのような悲劇を生んだのではないのか、という見方をするようになったことだ。

プロテスタントに属するセブンスデーアドベンチストの信徒である私は、カトリックの「告解」「万霊節」などの記述には、聖書的ではないようにも思えたのだ。

カトリックの司祭たちは、聖書の神を伝えようとしながら、実はカトリックローマ教の神を伝えようとしていたのではないのかと思うのだ。

イエス様の宣教命令に、従って情熱と使命を持って東の果ての日本に次々にやってきた司祭(パードレ)たち。
秀吉による禁教令が出てから、来日したパードレたちとキリシタンのむごい迫害の実話に基づく物語なのである。

ちょうど、雑賀信行「キリシタン黒田官兵衛 上・下」を読んでいたところなので、参考になる記述があった。

宣教師の資料を数多く翻訳してきた松田毅一氏によると、宣教師には二つのグループがあった。「植民地主義」「適応主義」である。
前者はカプラルやコエリュなどのグループ、後者はオルガンテーィノやヴァリヤーノのグループ。
植民地主義のコエリュのやりかたについてはオルガンテーィノやヴァリヤーノ、右近、小西、黒田官兵衛たちキリスト教徒の領主たちもあきれ返ったという。

結局、こうした植民地主義的宣教方法が秀吉、徳川幕府、日本の為政者たちの危機感を煽る結果となったのである。

教会において、日本のキリシタンたちが、秀吉の政権下でどれほどひどい迫害に遭ったのかを聞くことがある。
秀吉=悪者、 キリシタン、宣教師=善人
秀吉=加害者、キリシタン、宣教師=被害者
こうした単純な図式を持ち込んで、安土桃山、江戸時代の禁教令下の悲劇を情緒的に語られるのは、どうなのだろうか。

大航海時代を経て、日本とタイを除いて、アジア、アフリカ、南アメリカの国々はすべて植民地化されたのである。
そうした世界史の視点で見る時、徳川政権下の鎖国にしてもキリスト教禁令にしても、単純なキリシタン迫害の悲劇という見方が私にはできなくなってくる。
世界史の中で、なんという見事な舵取りをしたのだろうと感心してしまうのだ。

中学高校時代、私は世界史が大好きだった。
勉強というよりも、趣味の領域に近かったかもしれない。
キリスト教国の横暴さに驚きあきれはてた。

キリストの教えとは如何に? 結局、キリスト教に偏見を持ってしまったのだ。
キリスト教嫌いというおまけまでついてきた。
同級生の多くは、ロマンティックな雰囲気をキリスト教に感じていたようだが、
「世界史の教科書を見よ!ひどいじゃないか」と思っていたのだ。

イエス様もその弟子たちも迫害を受け殉教していった。
キリスト信仰を伝えるということは、迫害とは切り離せないものなのだろうか。

迫害を招き助長するような宣教方法と、オルガンテーィノやヴァリヤーノたちのような、日本の文化を肯定しつつ適応していく宣教方法もあったはずなのだ。

それは、今の日本宣教においても同じである。
お寺を偶像礼拝と捉え、神社を異教と捉え、お正月のしめ飾りや門松をサタンを招く行為だと教える。

私の教会で、あからさまにそのように言われてきたわけではないが、クリスチャンになりたての頃、いくつか読んだ本の中にそういうことが書かれていたし、仏壇を燃やした話を聞きもした。
「クリスチャンですから、しめ飾りも門松も、お正月行事はいたしません」と言っているのを聞いたこともある。


「沈黙」の後半 主人公の司祭が転ぶまでのキリスト信仰の葛藤の場面が圧巻である。

20年、日本で布教し転んだフェレイラ司祭は「日本人がその時、信仰したものは基督教の教える神でなかったとすれば・・・」とつぶやくのである。189ページ

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い間知らず、日本人がキリスト教徒になったと思い込んでいた」190ページ

「デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼ら流に屈折させ変化させ、そして別のものを作り上げはじめたのだ。
言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、・・・布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教のかみではなく、彼らが屈折させたものを信じていたのだ」191頁


ここを読みながら、司祭たちよ、あなた方が命をかけて伝えたキリスト信仰は、本来の聖書の教えからぶれた神学ではなかったか、あなたたちの信仰も、すでに屈折していたのではなかったかと、私は思ってしまうのだ。


「お前たちはな、布教の表面だけを見て、その質を考えておらぬ。なるほど、私の布教した20年間、上方に、九州に中国に仙台に、あまた教会がたち、神学校(セミナリエ)は有馬に安土に作られ、日本人たちは争って信徒となった。我々は40万の信徒を持ったこともある」191頁

日本は伝道、宣教の難しい国だと、今も言われている。
よく比較されるのが、韓国の基督教だ。
そして韓国のキリスト教徒の伸び率を礼賛し、それにひきかえ日本は・・・と言う。

しかし、その都度、私は釈然としない思いになる。
「問題は数ではない。一人一人の信仰の質だろう。」と言葉にしないでつぶやくのだ。

肝心なことは、クリスチャン一人一人ご聖霊の通りやすい管になることなのだ。
神様が好んで用いてくださる器となることなのだ。
そうなることさえも、神様の恵みであり力であるのだ。

私に最もストレートに迫ってきたのはフェレイラのこの言葉だった。
「お前は彼らより自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ。・・・わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督に倣って生きよと言う。もし、基督がここにいられたら・・・たしかに基督は、彼らのために転んだだろう。・・・愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
216頁

最近、私は娘から
「教会の人たちは、誰よりも自分が大事なのよ。自分の救いが大事なのよ。そういう視点から神様に従うということが優先順位の一番になっているのよ」
という意見を聞かされたばかりであった。
娘の、この言葉は深い・・・と思う。


解説を佐伯彰一氏が書いている。
「沈黙」は、一種の歴史小説でもあって、事件や人物の大方は、史実に基づいている。日本潜入を敢行した三人の司祭にもはっきりとモデルがある。・・・
歴史上の三人の司祭は、拷問にかけられて、三人とも棄教した由である。・・・
追い詰められた主人公のうちに生じた信仰上の悩み、懐疑をどうやら作者自身も深く共有しているということであろう。
信者たちの上に次々とふりかかる迫害、拷問、相次ぐ信者たちの犠牲、人間の気力、体力の限界を超えた苦難にもかかわらず、ついに神の「救い」はあらわれない。
主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。
果たして神の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に実在するのか、と。
これはキリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒にも素直にひびいてくる悩みであろう。・・・
神は果たして存在するのかという怖ろしい問いに答えが与えられた訳ではなかった。
しかし、ロドリゴの背教が、実は神への裏切りではなく、キリストは棄教者の足で踏まれつつ、これを赦していたという信仰の畏るべき逆説は、僕など不信の徒の心にもしみいらずにおかない。・・・

私の知人の知人に、聞かれなかった祈りは一度もなかったというご婦人がおられた。
「新しい家が欲しい時には、自分の望む間取りまで具体的に神様に祈るのよ。そうするとその通りの家が与えられたの・・・」万事がこのような証の続出である。

そのご婦人は人の話を聞くよりも自分のことを語りたい人であった。
わが娘に言わせるなら「当り前よ、人は自分のことを語りたいの。人の話なんて聞きたくもないわよ」なのだ。
後日、その女性が、神様をたてに悪魔祓いだと人を叩くことをしていたと、その被害者から聞かされた。
彼女の一途な信仰、彼女のスケールの信仰は、私には理解の範疇を超えているので、距離を置きたい種類の人であった。

「必死の祈りにもかかわらず、神は沈黙を守ったままであった」という体験を私はしてきた。
先ほどのご婦人などには、決してない体験かもしれない。
そしてその体験は現在進行形なのだ。

私の友は「キリスト教は好きだけれど・・・宗教を一つだけ選べと言われたら迷いもなくキリスト教を選ぶけど・・・「神の沈黙」の故に、信じることができない・・・」と打ち明けてくれた。

こうした心の重荷はなんとしよう。
重い錘(おもり)が心の内にずっしりとあるのだ。

神が「沈黙」していても、聖書の御言葉はいつも開かれている。
苦境から脱することができなくても、神への信頼が保たれますようにと祈るのだ。

マラナ・タ
10年近く前になると思う。
この心のおもりについて、主に向って嘆いていた。
その時主は、語られたのだ。
「この重さは、私から離れて流れていかないための船の錨のようなものだと考えることはできないか」と。
私は「はい、主よ、仰せのとおりです」と答えた。
それから、10年が経過した・・・
しかし、主よ、あなたの「沈黙」の中にあっても、あなたを信じます。
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