ごきげんよう! さわこです

昨日、やっと
「日本人はなぜいつも『申し訳ない』と思うのか」を読み終えた。

昨年秋、信仰の友Mが洗礼を受けた。
彼女からは「申し訳ない」という気持ちがいつも伝わってきた。
高齢者ならばともかく若い彼女から、そういう思いが流れ続けていることに、ふと10年ほど前に読んだ本を思い出した。

「日本人はなぜいつも『申し訳ない』と思うのか」
著者は長野晃子さん。2003年11月28日 第一刷 発行 草思社発行の本である。
新刊書の紹介の新聞が定期的に送られてきていて、その時に、私の心に留まったのだった。
そしてすぐに購入し読んだ。
この6年間で、思い切って2度、本の断捨離を決行したのだが、この本は手放すことができなかった。
Mとの出会いを機に、読み返したくなって、何冊かの本と並行しながら読んだので数か月かかってしまった。

帯にはこう書かれている。
・ 自分に裁かれる日本人
・ 日本人の罪悪感には理由がある!
・ 東西の民話の比較にもとづき、日本は恥の文化ではなく罪の文化であることを立証する知的刺激に満ちた文化論。

さて、表紙を開くと、表紙カバーの裏には、こう書かれている。
・ 『菊と刀』によって日本人に刷り込まれた「日本=恥の文化」の図式を覆す瞠目(どうもく)の書。
日本人はちょっとしたことでも「申し訳ない」と思う国民である。
だから相手に明らかな非があっても、自分にもある程度は責任があるという場合には、
相手をうまく責めることができない。
自責の念が邪魔をするのだ。
なぜ日本人はこうなのか。
本書では欧米の民話と日本の類似した話を比較して、
日本人の心の中に根深くインプットされた自責の念の深さをあぶりだす。

そしてまた、ページをめくると、そこには「はじめに」として著者のこの本を著すにいたった思いが書かれている。
「日本は太平洋戦争敗戦直後からルース・ベネディクトの『菊と刀』によって、恥の文化というレッテルを貼られてきた。」

この一文で私は目から鱗が落ちた。

さらに読み進むと「多くの学生(大学生)たちが『日本は恥の文化ですよね』という。
『なぜ?』と聞くと、『高校で習いました』などという答えが返ってくる。」
まさに、私がそうだった。
長野先生の学生というと、ざっと計算しても私よりも30歳近く若いのではないか。

ということは戦後、以来、高等教育を受けてきた人間のほとんどが「日本は恥の文化」だと思い込んでいる。
一種の洗脳状態ではないのか。

長野先生は、
「学生たちに『あなたたち、罪の意識はないの?』と聞く。
学生たちはびっくりした様子で『もちろんあります!』という。
さらに『子供の頃、人が見ていなければ何をしてもいいってしつけられた』と聞いてみると、『誰も見ていなくても悪いことをしてはいけないっていわれました』と皆が言う。
日本人に悪いことをさせないように、犯罪を犯させないように、日本人の心を律しているのは、罪の意識であることはあきらかだ。
日本の文化も罪の文化なのではないだろうか。」

長野晃子さんは民俗学者として世界の民話を研究しておられる。
「民話はサブカルチャーと言われているが、実態に即してみれば、マスカルチャーといった方が正しいであろう。日本に限らず、どこの国であっても、民話は、階級、階層、知的水準などに関わりなく、地域共有の文化財産なのである。そこで主として民話を資料として検討・検証し、日本も罪の文化であることを確信できた」と書いておられるのだ。

さらに、「日本の罪の文化の方が、欧米の罪の文化よりも犯罪抑止力があり、それに加えて、忠臣蔵や義民伝説などの民話化した物語が日本人の遵法精神を涵養し、日本を治安の良い国にしてきたこともわかってきた。」

日本の文化人や教育者たちが、ベネディクトの『菊と刀』によって、日本人を定義することが教養の一つであるかのように考え、学生たちに教えてきたことは、よろしくないことではないのか、と私は思っている。

ベネディクトの『菊と刀』は、米国政府がベネディクトに10万ドル与えて書かせた戦争プロパガンダであり、日本の文化を非正当化することであった(148ページ)、ということを私はこの本を読むまで知らなかった。

「ベネディクトの『菊と刀』のレトリックの巧みさに洗脳されて、「日本は恥の文化」と思い込んでいる日本人がいまだにたくさんいる。そして、とても自虐的な日本観を持ち、自国の文化に自信が持てずにいる。
自虐的日本観の根底にベネディクトが描きあげた日本人像があり、その額に貼り付けられた「日本は恥の文化」というレッテルがある。
もう、ベネディクトの呪縛から日本人は解き放たれるべきときであろう」
149ページ

私は25年前にクリスチャンになった。
以来、聖書を毎日読み、デボーションをするという生活を続けている。
毎週安息日礼拝にあずかり、祈祷会やさまざまな霊的集会に出席できる恵みにあずかっている。

私は8年前に、着物生活を始め、茶の湯を習い始めた。
聖書を読み、神様を礼拝するという生活が習慣化することで、私自身が変えられて行った。

自分に自信が持てず、おどおどしていた自分の内に軸ができてきたのだ。
自分に自信を持ったというのではなく、主イエス・キリストに自信を置くようになったのである。それを信仰用語でいうなら「ゆだねる・まかせる」ということになるのだろう。

キリスト教は欧米文化の影響を受けている面がある。
ゆえに、欧米文化びいきの人たちもいる。
しかし、私の場合、歴史が好きだったことや、日本の古典に関心があったことなどが影響したのか、聖書を学ぶにつれて、日本の中にある聖書の精神、神様理解に目が向くようになった。

古代日本にはすでに、イスラエル人が来ていて聖書の神が伝わっていた。
やがて、原始キリスト教徒たちもやってきて、日本の古代国家ができていく。
聖書の神さまの精神が根付いているのが日本なのだ。

そして、着物を着るようになったことで、身体が日本文化を理解したのだ。
茶の湯を学ぶようになって、茶の湯とは日本の「世界に誇るべき総合芸術」であり「文化」であることが少しずつ見えてきた。
それだけではない。茶の湯の精神はキリストの精神につながっていくことを体験したのだ。
そして、日本人であることの誇りと喜びと感謝に満ちてきた。

多くの日本人が「なぜ、いつも申し訳ないと思うのか」
それは、被造物である自分が不完全な存在であり、心を尽くしても、誠実を尽くしても、完全にはなり得ないことを知っているからである。
真実の神様を知っているから、自分を至らぬものだと分かる。

自分が不完全であるから(罪びと意識)贖い主の必要性を求める。
日本人の多くの人が持っている謙遜さ、それは「奥ゆかしさ」「慎み深さ」「相手を尊重し、自分は一歩さがる」「自己主張しすぎない」そういう形で現れてくる。
「まさに和をもって貴しとなす」協調性の世界だ。

そういう気質は、一歩間違えたら「自虐性」を招いてしまう。
正しいのは相手であり、間違ったのは自分と決めてかかる。

ベネディクトの『菊と刀』は、そういう日本人の感性を知り尽くして書かれたものであるとしたら(きっと、そうにちがいない)恐るべし!

太平洋戦争のあとも、アメリカは、日本人に向けての精神戦争を仕掛けてきたのだ。
日本人を徹底的に叩き潰そうと言う深慮遠謀の一つが、ベネディクトの『菊と刀』ではなかったか・・・そんなことを考えてしまったのだ。

「ごめんなさい」「いいえ、こちらこそ」「おたがいさまですよ」

先に謝っても、こういう会話が成り立っていくのだ。

これが、日本以外の文化圏なら、謝ったことで、「非を認めた」とされて冤罪を受ける羽目にもなるだろう。
成功した時、世の中から賞賛を受けたとき「皆様のおかげです」という言葉を先ず耳にする。
自分一人の力では成功は為し得ないことを自覚しているのだ。

「おかげさまで」という言葉には、目には見えないお方への感謝が込められている。
立派な信仰用語だとさえ思う。

10年前に読んだときには見えなかったものが見えて来て興味深かった。

マラナ・タ
神様、私に本物の謙遜の心をお与えください。
神様の知恵、識別、思慮、勇気、神を知り、恐れ敬う心を祈り求めます。




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