ごきげんよう! さわこです

立春も過ぎて暦の上では春は来たけれど、まだまだ寒い。
まだ浅い春の寒さ去りがたき頃のことを、春寒(はるさむ)とも余寒(よかん)とも言う。

春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)という熟語がある
その意味は、春になって寒さがぶり返し、肌寒く感じられるさまである。
「春寒」は春になってぶりかえした寒さのこと。
また「料」は肌をなで触れる意であり「峭」は厳しいを意味する。

春氷 谷川の水の流れや 鴬の 都へ急ぐ 鏡なるらむ

昨年の11月に茶の湯をやめてしまったのだが、
それまでのお稽古の日々に、忘れられない思い出がいくつかある。
その一つがこの和歌。

平成25年2月17日の茶会の折にかけられていたお軸の歌だ。
作者がどなただったのかも覚えていない。

早い春の谷川の流れに思いをはせてみる。その景色を想像してみる。
茶席におりながら、私の魂は神様の世界に誘われてしまう。

どんな立派なお道具が使われていたとか、お茶名が何であったとか、季節のお菓子が何だったとか、覚えていないのだ。
母ゆずりのどの着物を着ていたのかも覚えていない。

私の好きな讃美歌に
「谷川の流れをしたう鹿のように 主よ 我がたましい あなたを慕う 
あなたこそ わが楯 あなたこそ わが力 あなたこそ わがのぞみ 我れ 主を仰ぐ」


あなたとは、創造主であり贖い主である神のことである。
鹿が谷川の流れを慕うように、鴬もまた谷川の流れを慕うのだなあと思う。

鹿も鴬も、もちろん人も、被造物は皆、造ってくださったお方のことを慕い求めるのだ。
一寸法師がお椀の舟に乗って都にたどりついたように、谷川の流れは都へと続くのだろう。

そこで、また讃美歌を思い起こす。
「うるわしい天の国 約束の都には 命の川ゆたかに 人々を潤す その御国目指しつつ ハレルヤと声をあげ 導きを主にゆだね 日々歩む うれしさ」

私にとって都とは、「うるわしい天の国、約束の都」である。

鴬が都を目指す、それは、神を信じて生きる生き方の象徴である。
私たちの品性がイエス様に似たものとなることを待ち望む心である。

天国の住人としてふさわしい者となりたいと願う心である。
そして、イエス様のご再臨を待ち望む心である。


鶯はゆっくりのんびりと目指すのではなく、急いで都を目指すのである。
その急ぐ様に神様を真剣に求める思いが映し出される。

神様に喜ばれる品性を備えた人に一刻も早く変えていただきたい熱情を感じさせられる。
また、川の流れは鏡となって、私たちの心を写しだす。

悔い改めるべきことを気付かせてくれる。
感謝することを思い起こさせてくれる。

私たちの持っているものすべては神様から頂いたもの、お預かりしたものであることを気付かしていただける。

鏡というとすぐに思い起こす御言葉がある。

コリントの信徒への手紙3章16-18節
「しかし、主のほうに向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは‘霊’のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の働きによることです。」


谷川の流れに沿っての都いそぎは、イエス様をしっかりと見上げて、イエス様とともに歩む人生の旅路である。

そして私は、また詩編の都に上る歌120編から135篇を思い起こすのである。

みことばを味わいつつ詩編を読み返す至福の時が与えた早春の茶会となった。

いろんな事情で、やめてしまった茶の湯であるが、季節の折々に私の魂に深く染み入った茶席の思い出は、私の信仰をいつも鮮やかに真摯なものへと引き上げてくれる。

マラナ・タ
私たちの日常の中に、神様を慕い望む思い、待ち望む心を与えてくださる神様を讃えます。
キリスト信仰を与えてくださった神様を讃えます。