ごきげんよう! さわこです。

昨日、学生時代の親友から季節の果物が送られてきた。
彼女は3年ほど前から俳句を始めている。
去年、手紙の中に最近の句が書かれていた。

今年も彼女からのみずみずしい蜜柑を味わいながら、去年の俳句を思い出した。
彼女の許可を得たので、紹介しよう。

短日や 我に返りて 厨事   
(たんじつや われにかへりて くりやごと)


冬はあっと言う間に日が暮れてしまい、昼が随分と短く感じられるが、その感覚を短日と言うそうだ。
 短日の感覚は、日に日に昼間が短くなるのを実感する11月中頃から強くなり、そして、最も昼の時間が短い冬至の頃に極まる。
「日が短くなったなあ、あっという間に、夕食の台所仕事の時間になったよという、いかにも主婦という感じが見えてくるような句でしょ」と彼女は解説してくれた。


私が「短日」という言葉から考えることは、神様の「永遠の時」の前では、私たちの地上人生は「束の間」であるという現実である。


「短日や」の「や」において、それをしみじみと感じるのだ。

一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、今日よりも明日とご再臨は近づいてくる。
イエス様にお会いする時までの日数は、日毎に短くなってくる。
ああ、私たちの一生はイエス様にまみえる日に近づく日々だとしみじみ思う。

「短日や」は、クリスチャンであり再臨信徒である私は「神を待ち望む」思いとなって響いてくるのだ。

 「我れにかへりて」から、我を忘れるような時を過ごしていた彼女の姿を思う。
友とのおしゃべりかしら。本好きな彼女のことだから、読書に耽っていたのかしら。
編み物、縫い物、パッチワーク、手芸に夢中になっていたのかしら、と彼女の日常を推測してしまう。
我を忘れるほど、彼女を夢中にさせてものはなんだろうか。

我に返って彼女は「厨事」として表現される主婦としての台所仕事に気づかされたのだ。

人には自分のなすべき仕事、分、領域がある。
それは、主婦の場合、厨事(くりやごと)台所仕事で象徴されるのかもしれない。

昔のように男子厨房に入らず、などと言われる時代でもなくなり、料理好き、料理上手な男性も増えてきたが、それでも厨(くりや)台所は女性にとってある面、聖域とも言える。
少なくとも、私にとってはそうである。

台所の流しに立ち、家人に知られぬように、食器を洗いながら涙を流したことも数知れない。
料理を作りながら、私の唇はいつも賛美歌とともにあった。
暗誦聖句を覚える場所でもあった。
また、心の重荷や悩み事を神様に打ち明ける場所でもあった。

夕食の団欒のあと家族はそれぞれの部屋に行き、台所を片付けた後、私は食卓で聖書を開くのだった。
自室を持たない主婦は夜の食卓のテーブルが勉強机であり、自分の時間を過ごす場所であった。

友の句の「くりやごと」の言葉に、私の信仰生活の日常が重なって来る。
私にとって台所は、私の主である神様のおられる場所であり、私の祈りの場所であるのだ。

そして台所で、私は神様の語りかけを何度聞いたことだろう。
くずおれそうになった私は
何度神様に立ち上がらせていただいたことだろう。


「我れに返る」と聞くと私はルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ話」を思ってしまう。
我に返るとは、キリストを信じる者にとっては神のもとに帰ること以外の何ものでもない。
我に返って、神様のもとに帰ってきたとき、神様は「待っていたよ」と喜んで受け入れてくださるのだ。
そして人は、自分のなすべき分を見出すのだ。
自分のなすべき「分」は我に返ることで見出すことができるのだ。


「我れ」とは何か。「我れ」は本来の「我れ」を生きているか。
そんなことを考えたことはないだろうか。

高校生の時「倫理社会」の授業でデカルトの「われ思う、故に我あり」という思想に出会って納得し、レポート式のテストだったがデカルトを選んだ日のことを思い出した。

「我れ」という言葉には哲学する響きがある。自分探しのテーマがある。

放蕩息子は「自分探し」の旅に出た。
自分の思い通りに生きることが幸せであり、自己実現できることだと思ったのか。
彼は最悪の事態を経験してやっと「我に返った」のである。
父である神のもとに返ってくるのである。

一番良いことは自分から迷いでないことであるだろうけれど、神様は人間をロボットとしてではなく、自由意志を持ち選択することのできるものとして創造された。

自由意志を誤って使うときそこには悲劇が待っている。
しかし、神の愛は人間の失敗よりも大きい。
どのような理由であっても、どのような状態で離れていっても、神の手は常に差し伸べられている。
私のバプテスマ式のときに歌ってくださった賛美歌は私の愛唱讃美歌となった。

♬ 1、われに来よ と 主は今、やさしく呼びたもう。
などて 愛の光を 避けてさまよう。
帰れや 我が家に 帰れや と 主は いま呼びたもう 

2、つかれはてし 旅人 重荷をおろして
来たり いこえ 我が主の 愛のみもとに
帰れや 我が家に 帰れや と 主は いま呼びたもう

3、迷う子らの 帰るを 主はいま 待ちたもう
罪もとがもあるまま 来たりひれ伏せ
帰れや 我が家に 帰れや と 主は いま呼びたもう


マラナ・タ
「我とは?」という若い日の問いかけから20余年たって聖書の神は答えを与えてくださいました。
そしてさらに時は流れて、聖書の神は汲めど尽きぬ泉のごとく、今も私の質問に答え続けてくれています。