ごきげんよう! さわこです

人を傷つけていたことに、何年も気づかなかったこと。
ちょっとした行き違いが、是正されないままに、誤解が膨らんでしまうこと。
第三者に話して気を晴らそうとした結果、悪い評判や噂が広がってしまうこと。

こういった人間関係の苦しさを経験しない人はいないのかもしれない。

水たまりに足を踏み入れてしまうと、泥水がはねかえってしまうように、自分のしたことは良かれ悪しかれ跳ね返るのです。
そうした自分のまいた種の刈り取りをしなくてはならない。
それを、自業自得、因果応報、自分の失敗の刈り取り、と表現するのでしょうね。

神様に告白するなら、神様は必ず赦してくださいます。
それは、私と神様の関係においてのこと。

しかし、罪のはねかえりのゆえの苦労があるのですよね。
ただ、私がいたらなかったばかりに、巻き込んでしまって、苦しむ結果になったかもしれない人のことで、心が痛むのです。

人の感情は実に繊細です。
傷つきどころが、人それぞれです。

昨年、そういうことに気づく出来事がありました。
以来、あれもこれも、もしかしたら、と次々に心当たりが思い出されて・・・
なんとも、気持ちがふさぎ、心が落ち着かなくなりました。

自分を責めるというのではないのです。
私に悪意があったとか、落ち度があったとかいうのでもなく、きっとただ感受性の違いに起因しているのでしょう。

「小さな親切、大きなお世話」それに似た感じでしょうか。

「ありがとう!すごくうれしい!」という言葉が、「もっと、ちょうだい!」という催促に聞こえてしまうことだってあるのではないでしょうか。

そのときにお礼を言ったので十分と思っていたら、お礼の電話をしなかったので失礼だとか、次に会ったときに「この前は・・・」と二回目のお礼を言わなかったので、「お礼も言わない人なのね」と言われたりだとか、そういうことってありますね。

それを一度、経験すると、Aさんには三回お礼を言わないと、言ったことにならないとか、
Bさんには、一度だけにしておかないと催促をしていると受け止められるとか、少しずつ分かってくる。

人にはそれぞれの流儀があるのです。
自分以外はみな異星人!
と思っていたらよいのかもしれませんね。

流儀の違いを人はそれぞれですからね、と受け流すことができる人ばかりではない。
忠告や説教しなくては収まらない人。
黙って離れていく人。
あちこちで、文句を誰かれに言わなくては腹の虫の収まらない人。

どういうタイプにしろ、その人の感情が傷ついているということは確かです。

私は自分が傷つく分は構わない方なのです。
なぜなら、神様を知っていて、お祈りがあるからです。
神様に相談できるからです。
神様にお話できるからです。

しかし、相手を傷つけてしまったかもしれない場合、
明らかにこちら側に落ち度がある場合には謝ります。
その点が、感受性の違いで不明瞭な場合には、どうしようもなく、悶々となってしまうのです。

しかし、今日、神様から「これだ!」というお祈りをいただきました。

「神様、私が不愉快にさせてしまったかもしれないAさんBさんCさんの心に喜びの霊を注いでください。
なぜかわからないけれど、なんだかうれしくって仕方がないのと、喜びで満たして差し上げてください」

お祈りをくださった神様をたたえました。

マラナ・タ
神様、いつも適切なお祈りを与えてくださってありがとうございます。
神様がお祈りをくださいますので、私の傷つきやすい魂はすみやかに癒していただけます。
イエス・キリストなる神様を信じる信仰を与えてくださり感謝です。

イエス様、まだあなたを知らない人たちの傷ついた魂も癒してください。
その人々の心を喜びで満たしてください。