ごきげんよう! さわこです

私のクラスに中学一年生の女の子がいます。
名前は、かのん。
素敵な漢字がついています。
カノンというと音楽用語ばかりを思いますが、聖書の聖典という意味もあります。
「かのんさん、あなたの名前には聖書の意味もあるのよ」と話したことがあります。

中学生になると、小学生の時のように毎安息日の礼拝に出席することが困難になってきますが、かのんさんもそうです。
かのんさんのおうちは全員がクリスチャンです。
自宅が遠いので、小学生の時にも礼拝前の安息日学校子供クラスの分級に間に合わないこともありました。

そんなときには、「礼拝直後に、補習授業しようか?」と誘いました。
するといつも喜んで「補習して!」と言って、会堂の隅っこの椅子で、ふたりで聖書を開きました。
ときには、はなちゃん、かいとくんも「復習を一緒にしてもいい?」と言って参加することもありました。
この子たちは、ほんとうに神様が大好きで、聖書を学ぶことが喜びなんだなあと思います。

昨日の安息日学校は、児童伝道が担当しました。
私のクラスは、子供たちのそれぞれのテーマ聖句を発表しました。
かのんさんは、教会に来ることができなくて、作文を母親に預けていました。

その、かのんさんの「あかし」を紹介します。

私は部活で教会に来ることができません。
でも、こうして発表していただけることに感謝しています。
私のテーマ聖句は申命記10章12から15節です。
この聖句は「神が求められること」という題です。
(新共同訳聖書には小見出しがついています)

私はさわこさんに「今年のあなたのテーマ聖句を決めて」と言われたとき、どうしたらいいかわからないまま、久しぶりに家で聖書を開きました。
(なんと正直なのでしょう!)
そしてこの一週間、毎日、聖書を通して神様のことを考えました。(何と恵まれた1週間を過ごしたことでしょう!)

そこで、この聖句を見つけました。
最初に題が目に入り、私が探しているのはこういうことなのではないかと思いました。

この聖句の中にはこういう言葉があります。
「ただ、あなたの神、主を畏れて、そのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」

私はこの聖句のように神への信仰を深めていきたいです。



おかあさんはこの作文を読んだ後、かのんさんの悩みを話してくれました。

中学生になってから、安息日礼拝を守れなくなったことで、彼女は心を痛めているということ。今まで一緒に学んでいた下級生の仲間は安息日を守っているのに中学生になった自分は学校や部活を優先しているということ、そのことで、自分の信仰について悩んでいるということ。
ついつい、人と自分を比べてしまうことで、悩みが深くなってしまうこと。

中学一年生の信仰者の悩みです。
このような悩みを持つということが、彼女の信仰心の質を表していると思います。

しかし、安息日は「場所」を指定しているわけではありません。「日」「時間」を指定しているのです。
あなたのいる場所で、安息日礼拝の「聖別」した時間を確実にもつことで安息日を守ることもできるのではないでしょうかと、かのんさんに話したことがあります。

しかし、自分ひとりで安息日を守るということは、教会の安息日のように、スケジュールが決められているのではありませんから、ついつい誘惑に負けてなし崩しになってしまうのです。

おかあさんも、彼女のためにそのような協力や指導が十分にできていなかったと、今回のことを通して気づかされたと言っていました。

私が聖書通読を長年続けていることを生徒たちは知っています。
そして、チャレンジをしようという思いがわいてきていることも知っています。
私の使っている通読表を今年も欲しいと言ってきました。
気持ちはあるけれど、実行は難しい彼らに、今年は一つの提案をしました。

四つの福音書を、毎日、1章読んでごらん。
三か月で読み切ることができるよ。
「1月から始めたら3月には終わるから、『進級して新しい学年になるまでには四福音書を通読してやるぞ』という意気込みが出せるといいね。」と励ましてみました。

彼らたちとその家族と私は信頼関係が結ばれていますから、こうした指導をするチャンスが与えられるのかもしれません。


「さわこさんは、厳しすぎる、難しすぎる、教会が楽しくなくなる」という苦情が出てきたこともありました(笑)
     (一部の大人の信徒から、たぶん、きっとそうよ、との憶測で)
実際は、笑えなかったのですよ、悲しすぎて(涙)

祈りを持ってするならば、いつでも分かり合えるというものではありません。
「時」があります。「神様の時」があります。

しかし「自分の好みの時」を「神様の時がまだ来ていない」と決めてかかることもあります。
「神様の時だ」と思い込むこともあります。

そして「さわこさん、あなたは急ぎすぎです」と注意をされたこともありました。

私は決して強制も命令もしていないのですが、そんなふうに受け止められてしまって残念な思いをしたこともありました。

ただ、黙々と、聖書通読、密室の祈り、デボーションを続けることだけかもしれません。
13年続けていると、そのうちに、ひとりひとりの心が開かれて、私の取り組んでいる方法に対しての理解者が現れてくることがわかりました。
通読仲間、デボーション仲間は、少しずつ増えてきています。

人に勧める時には、先ず、自分が取り組むこと。
有名な立派な先生が書いていることの受け売り、それでも十分に良い影響力がありますが、
いつまでも受け売りにとどまらず、自分の中に定着させ、自分の血肉にしなくては説得力はありません。

ただね、「人はそれぞれですからね、それはさわこさんだけのケースに過ぎませんよ。私には私にあった方法があるはずだから」
という反応もあります。それはそうですね・・・

マラナ・タ

ついつい愚痴っぽくなってしまいました(笑)
神様、ごめんなさい・・・
理解者がいなかった時代には、私が孤独を感じ、孤立感を持っていたことを神様はご存知でした。
でも、神様、ご存知でしょう?
人と人が互いに共感し合い、分かち合うということがどんなに大きなよろこびであるかを。
人は人との関係の中で生きているということを。