ごきげんよう! さわこです。
今日は新しい年が始まって最初の安息日。
安息日学校の子供のクラスは、大判聖書かるたで遊んだあと、分級に入った。
昨年の終わりに、テーマ聖句を決めておいてほしいと話してあったので発表してもらうことにした。
お正月休みに祖父母の家に来ている6年生のまいちゃんは「マタイ7:12、だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とすらすらと言った。
「うちな、それがなかなかできへんね。だからそれができるようになりたいねん」
かいとくんは「ぼくはね、マタイ8章の百人隊長のところ。ぼくには僕(しもべ)はおらんけど、友達や家族や周りの人たちに対して百人隊長のようにやっていきたいと思っているんだ。前に、はなやかのんと一緒にさわこさんからここを教えてもらったときから、ずーと思っているんだ」
かいとくんは、聖書の登場人物の中に、かくありたいというモデルの人物を見出したのだ。
まいちゃんもかいとくんも、聖書のみ言葉によって、どのような人に成長したいかという目標がはっきりしている。自分の言葉でそれを伝えることができている。
それこそが、聖霊様のなさる働きだ。神様のわざだと思う。
今日、お休みしているはなちゃんは12月最後の安息日学校の分級で、話してくれたことを二人に伝えた。
「箴言20章の11節がはなちゃんの選んだところだよ」といって二人に読んでもらった。
「子供も、行いが清く正しいかどうか、行動によって示す」
「はなちゃんは『幼子のようになりなさい』って聖書にあるからと言って、子どもだからって正しくない行いは、いけないと思うって言ってたの」
私には小学高学年になった子供たちが、イエス様を信じることで、清く正しい品性を得たい、そう思うだけでなく、実際に変えられたい、変わりたい、そのように成長したい、と熱望していることが伝わってきた。
「小さい子供に対して、『あなたは大きいのだから、がまんしなさい』って言われることあるよね」
二人は、長男、長女だから小さい弟や妹に苦労してきた体験があるので、我が意を得たり!とばかりに「ある、ある、いっぱいある」と言った(笑)
「そんなときは、どうするの?」
「いらいらしたり、腹が立ったりする気持ちを安らかな気持ちに変えてくださいって、神様にお祈りするの」
とまいちゃん。
「そうね、自分の感情を神様にコントロールしていただくってことね。コントロールって言葉、知ってる?」
「うん、知ってる」
「小さいからってわがまま放題に育つ子供と、がまんすることを知って育つ子供とどっちが幸せなんだろうね?」
と質問すると「がまんした子の方が幸せやと思う。でも、その子供が良い人に育つためには、わがままやまちがいはいけないことだって教えてあげなくちゃいけない。」
「教える時には、偉そうに言ったり、叩いたり、蹴ったりして教えたって、伝わらないよね。その子に伝わる伝え方を神様に教えてもらわなくちゃね」
「それから、自分がいやな気持ちになったことも、きちんと話さなくちゃいけない。」
とかいとくん。
「そうね、それって大事ね。神様にも、腹が立っているとか、すごく悲しいのだとか、そんな自分の正直な気持ちをお話しなくちゃいけないね。神様はそんな正直なお祈りを喜んでくださるよ。ダビデだって、そんな祈りをいっぱいしたよ。詩編の中で嘆きの詩編って言われているのよ。そういう正直なありのままの気持ちを神様に伝えていたら、神様が平安を注いでくださるよ」
「今日は、始まりのお祈りと終わりのお祈りをしたので、シール二枚ね。
それから、テーマ聖句を決めたことと、そのことについてお話してくれたから、もう一枚ね。」と3枚のシールを渡した。
ポイントシールが50枚集まると、聖書がもらえる。聖書をもらった子は次には讃美歌をもらえる。それからあとは、カタログを見て、信仰グッズをもらっていく。聖書用のインデックスももらって、聖書にきちんと貼り付けている。
聖書と讃美歌のカバーをおそろいの布で作ってあげている。
まったく、私のセンスに任せてもらっているのだけれど、どういうわけか気に入ってくれているのが私にはすごくうれしい。
聖書、讃美歌、ブックカバーをもらって、自分の名前を書き、牧師に励ましの聖句を書いてもらって、子どもたちは大切にしている。
そんな彼らから、クリスチャンとして生きていく喜びと誇りが伝わってくるのだ。
礼拝は11時から始まる。私の隣にかいとくんがすーと来て座った。
彼は4月から広島三育学院中学校に進学する。
安息日学校の分級、そして礼拝にともにあずかれるのは、十数回しかないのだ。
彼もそれをよく自覚している。
私のクラスの子供たちは、私の信仰の親友であり私の大切な生徒である。
互いに愛し合う思い、信頼し合う思いがつながっていることを、互いにいつも感じている。
「御言葉」によってつながっているのだ、私たちは。
やがて彼らは教会を背負っていくイエス様の弟子となっていく。
今も、すでに彼らはイエス様の弟子だ。
彼らは私の誇りだ。
マラナ・タ
彼らの信仰の成長は私に大きな喜びを与えてくれます。
彼らからどれほど大きな慰めと励ましを得たことでしょうか。
互いに愛し合うことをこうして私は学んでいます。
今日は新しい年が始まって最初の安息日。
安息日学校の子供のクラスは、大判聖書かるたで遊んだあと、分級に入った。
昨年の終わりに、テーマ聖句を決めておいてほしいと話してあったので発表してもらうことにした。
お正月休みに祖父母の家に来ている6年生のまいちゃんは「マタイ7:12、だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とすらすらと言った。
「うちな、それがなかなかできへんね。だからそれができるようになりたいねん」
かいとくんは「ぼくはね、マタイ8章の百人隊長のところ。ぼくには僕(しもべ)はおらんけど、友達や家族や周りの人たちに対して百人隊長のようにやっていきたいと思っているんだ。前に、はなやかのんと一緒にさわこさんからここを教えてもらったときから、ずーと思っているんだ」
かいとくんは、聖書の登場人物の中に、かくありたいというモデルの人物を見出したのだ。
まいちゃんもかいとくんも、聖書のみ言葉によって、どのような人に成長したいかという目標がはっきりしている。自分の言葉でそれを伝えることができている。
それこそが、聖霊様のなさる働きだ。神様のわざだと思う。
今日、お休みしているはなちゃんは12月最後の安息日学校の分級で、話してくれたことを二人に伝えた。
「箴言20章の11節がはなちゃんの選んだところだよ」といって二人に読んでもらった。
「子供も、行いが清く正しいかどうか、行動によって示す」
「はなちゃんは『幼子のようになりなさい』って聖書にあるからと言って、子どもだからって正しくない行いは、いけないと思うって言ってたの」
私には小学高学年になった子供たちが、イエス様を信じることで、清く正しい品性を得たい、そう思うだけでなく、実際に変えられたい、変わりたい、そのように成長したい、と熱望していることが伝わってきた。
「小さい子供に対して、『あなたは大きいのだから、がまんしなさい』って言われることあるよね」
二人は、長男、長女だから小さい弟や妹に苦労してきた体験があるので、我が意を得たり!とばかりに「ある、ある、いっぱいある」と言った(笑)
「そんなときは、どうするの?」
「いらいらしたり、腹が立ったりする気持ちを安らかな気持ちに変えてくださいって、神様にお祈りするの」
とまいちゃん。
「そうね、自分の感情を神様にコントロールしていただくってことね。コントロールって言葉、知ってる?」
「うん、知ってる」
「小さいからってわがまま放題に育つ子供と、がまんすることを知って育つ子供とどっちが幸せなんだろうね?」
と質問すると「がまんした子の方が幸せやと思う。でも、その子供が良い人に育つためには、わがままやまちがいはいけないことだって教えてあげなくちゃいけない。」
「教える時には、偉そうに言ったり、叩いたり、蹴ったりして教えたって、伝わらないよね。その子に伝わる伝え方を神様に教えてもらわなくちゃね」
「それから、自分がいやな気持ちになったことも、きちんと話さなくちゃいけない。」
とかいとくん。
「そうね、それって大事ね。神様にも、腹が立っているとか、すごく悲しいのだとか、そんな自分の正直な気持ちをお話しなくちゃいけないね。神様はそんな正直なお祈りを喜んでくださるよ。ダビデだって、そんな祈りをいっぱいしたよ。詩編の中で嘆きの詩編って言われているのよ。そういう正直なありのままの気持ちを神様に伝えていたら、神様が平安を注いでくださるよ」
「今日は、始まりのお祈りと終わりのお祈りをしたので、シール二枚ね。
それから、テーマ聖句を決めたことと、そのことについてお話してくれたから、もう一枚ね。」と3枚のシールを渡した。
ポイントシールが50枚集まると、聖書がもらえる。聖書をもらった子は次には讃美歌をもらえる。それからあとは、カタログを見て、信仰グッズをもらっていく。聖書用のインデックスももらって、聖書にきちんと貼り付けている。
聖書と讃美歌のカバーをおそろいの布で作ってあげている。
まったく、私のセンスに任せてもらっているのだけれど、どういうわけか気に入ってくれているのが私にはすごくうれしい。
聖書、讃美歌、ブックカバーをもらって、自分の名前を書き、牧師に励ましの聖句を書いてもらって、子どもたちは大切にしている。
そんな彼らから、クリスチャンとして生きていく喜びと誇りが伝わってくるのだ。
礼拝は11時から始まる。私の隣にかいとくんがすーと来て座った。
彼は4月から広島三育学院中学校に進学する。
安息日学校の分級、そして礼拝にともにあずかれるのは、十数回しかないのだ。
彼もそれをよく自覚している。
私のクラスの子供たちは、私の信仰の親友であり私の大切な生徒である。
互いに愛し合う思い、信頼し合う思いがつながっていることを、互いにいつも感じている。
「御言葉」によってつながっているのだ、私たちは。
やがて彼らは教会を背負っていくイエス様の弟子となっていく。
今も、すでに彼らはイエス様の弟子だ。
彼らは私の誇りだ。
マラナ・タ
彼らの信仰の成長は私に大きな喜びを与えてくれます。
彼らからどれほど大きな慰めと励ましを得たことでしょうか。
互いに愛し合うことをこうして私は学んでいます。