ごきげんよう! さわこです

夜も明けきらぬ頃、元旦恒例の三社参りに行く。
これは、私がキリスト教の信仰を持つ前から、私が嫁いだ時からの夫の実家での恒例行事。

夫の両親が健在だった時代には、兄弟の家族が一堂に集まって、ぞろぞろと歩いて三社参りに行ったものだった。
妊婦さんの時代も、赤ちゃんを背負っていた時代も、嫁同士小さい声で話しながら、幼子の手をひいて、新しい年の冷たい澄み切った空気の中を一族が歩いていくのだった。

両親が亡くなり、兄弟も散らばり、今は各家庭にまかされている行事。
夫は、それが好きなので、我が家は続いている。

我が家は夫の実家ほど交通の便が良くないので、車での移動になるのだが。
最後に竹林寺さんのある山に登って、初日の出を見る。
それに時間を合わせるので、未明の時間に出発するのだ。

帰ると、昨夜から用意してあったおせち料理での朝食となる。
食後は夫はこたつで早い昼寝となり、
私は大急ぎで、着物に着替えて、教会の元旦礼拝に出席する。

母に譲ってもらった一つ紋のえんじ色の地模様のある無地の着物。
普段に結ぶ名古屋帯と違って袋帯なので、少々、結びにくい。
いつものようにちゃちゃっとは結べない。

母の健在だったときには、何とも思わないで着ていたのだが、母が亡くなってしまうと、母の着物を着ることで、母の心を身にまとうような思いがする。

嫁ぎ先の紋ではなく、実家の紋を背負って生きることに、両親のスピリットを受け継いで生きているような凛とした気持ちになるのだ。

旧約聖書で、登場する女性の名前について、○○の子△△の娘という記述がある。
私は突然、ぽっかりと存在したのではない。
父がいて、母がいて、そのまた父がいて、母がいて、そうした連綿とした命のつながりの中で存在しているのだ。
途中で誰かが子を設ける前に死んでしまったら、命の連鎖は止まってしまうのだ。

そんな不思議なめぐり合わせの中で生かされている命なのだ。
今、地球上に生きているどの命もそうなのだ。
そして、イエス様はそのどの命にも、永遠につながるいのちを与えようと願っておられる。

着物を着るようになってから、節目節目の装いを大事にしたくなってきた。
かつては、失礼に当たらなければそれでよいと思っていたのだけれど、母や姑、伯母、親友の母上たちから、上質な着物を譲っていただくようになってからは、その場にその時に相応しく装うようにしようと考えるようになった。

今は、着物離れの時代だ。
着物を愛用する人は極めて少ない。

すたれていく日本の文化を愛おしむごとき思いで、私は母たちの着物の袖に手を通す。

高齢になると、着物を着るのもつらくなってくると聞く。
母も晩年には着物を着なくなってしまった。
私の着物生活も20年あるだろうか・・・


さて、初詣をクリスチャンはしないようだ。
異教礼拝のごとく考えているのだ。
私もクリスチャンになった当初は、そういう思想が入ってきて、
夫のお伴で初詣をすることに、釈然としない気持ちを免れなかった。

しかし、古代日本にイスラエルの宗教が入ってきたこと。
続いて原始キリスト教も入ってきたこと。

そうして、八幡宮は創造主をまつり、稲荷神社はイエス・キリストをまつっているという研究結果を読んだり聞いたりしているうちに、日本の神社に対しての気持ちが変わってきた。

また日本の仏教に関してもキリスト教の教えも巻き込みながら成立していったのだ。

日本の神社仏閣には創造主、贖い主のスピリットが秘められている。
「隠された聖書の国日本」というケン・ジョセフさん親子の書物のタイトルは実に言い得ていると思う。

そういう精神で、日本文化を眺めてみるならば、日本の神社仏閣を異教だの偶像礼拝だの悪魔の宗教だのそういう先入観から解放されるのではないだろうか。

私は堂々と、神社でもお寺でも「父なる御神様」と呼びかけ「イエス・キリスト様の御名を通してお祈りします。アーメン」と心の中で祈っているのだ。

マラナ・タ
新しい年、新しい命を与えてくださった神様
この命を、あなたのみこころにかないますように用いさせてください。