ごきげんよう!さわこです。

クリスマスイブ礼拝の夜、あい子さんがいらっしゃった。

12年前、2002年のイブ礼拝の夜、あい子さんのお姑さんと妹さんそしてお友達の三人が、突然、いらっしゃったのだった。

私の町にはキリスト教会はいくつもある。
古くからの日本基督教団の大きな教会も、また、お母様のお店の近くにも教会はあるのだ。
それなのに、わかりにくい場所にあるSDA教会を選ばれたのだった。
天使が星の光で導いてくださったとしか思えない。

道に迷われて、教会の周りをぐるぐるまわり、ようやく到着した時には礼拝は終わって、ほとんどの方はお帰りになっていた。

あい子さんのご主人は、私の夫の高校時代の後輩。
お母様は、商店街で小さな洋品店を営んでおられる。
お店の前を行き来するたびに、私は「おかあさん、お元気?」と声をかけていた。

そのお母様に久しぶりにお目にかかったのだった。
「まあ、おかあさん、おひさしぶり!」
「あらあ、さわこさん、ここはあなたの教会だったの!」

お母様たちは、礼拝が終わったことなど意にも介さず
「イエス様を拝ませていただきとうございます」と言って、十字架の前にぬかづかれた。
その後「お布施をおささげしとうございます」と献金を差し出された。

その翌年からは、お母様の長男夫婦がイブ礼拝に参列なさるようになった。
お店を閉められないから、息子夫婦にかわりにいってもらうことにしたのだという。
ご夫妻は、イブ礼拝には毎年二人で参列なさった。
音楽会や講演会にも、その都度いらっしゃるようになった。
ある年には、元旦礼拝にも参列なさったこともある。
そんなことが続いて、私は夫の友人夫妻と親しくなっていった。


昨年のイブ礼拝、はじめていらっしゃらなかった。

暮れも押し詰まったある日、あい子さんの名前での封書が届き、何とご主人は25日に急死さていたことを知ったのだった。
あい子さんがお仕事を終えて日暮れて帰ると、ご主人はこたつの中でこと切れておられたのだった。
その前日24日には、夜の外出は気の進まない体調だったのかと、後になって思ったのだ。

お二人の息子さんは大学一年生になったばかりの春、交通事故で亡くなられていた。
キリスト教主義の名の知れた大学だった。
自慢の息子さんだった。
それ以来、どこに行くにも二人一緒で寄り添うように生きておられた。

お二人やお母様がキリスト教に関心を寄せるようになられたのは、きっと息子さんの事故死と関連があるのだろうかと思った。

お母様は90歳を過ぎた今もかくしゃくとしておられる。
しかし、孫の事故死、そして十数年後の息子の突然死、どんなにお辛いことだろう。
どんなに深い悲しみだろう。
以来、私は商店街を通るときには、そのお店の前を通るように心がけ
「おかあさん、元気?」
と顔を見せるようにしている。


今年のイブ礼拝、受付に立っていると、あい子さんが現れたのだった。

「ここに来たら、さわこさんに会えると思ったの。だから来させていただいた。あなたからもらった十字架のビーズのブローチ、今日はつけていないけれど、よくつけているわ」
「私とは色違いのおそろいなのよ」と私はあい子さんの肩を抱いた。


「告別式も、身内だけでの家族葬で済ませた、お悔やみも特に何もしないでほしい」
と書かれた手紙に、私たち夫婦は、どのように悲しみと慰めの気持ちを伝えたらよいのか、非常に戸惑ってしまった。
お包みという形で哀悼の気持ちを表したなら、香典返しをどうしようかと、悩むに違いないと思った。

それで、田舎の家のキウイ畑のキウイで造った自家製のジャムと、ビーズのブローチに手紙を添えて送ることにしたのだった。

ブローチは、前の牧師夫人の手作り作品。
夫人はとても器用な方で、いくつものビーズ手芸を教会バザーに出しておられた。
とても素敵だったので、もう一個余分に購入していたのだった。

その後、牧師夫妻は転勤になって遠くの街に引っ越してしまわれた。
あの時、なぜ、もう一つ買ったのだろうかと不思議に思う。

その余分のもう一個の十字架のブローチが、あい子さんを慰めてくれたのだった。
神様はこのことのためにブローチを用いてくださったのだ。


マラナ・タ

イエス様の十字架は、私たちの慰めです。
人間の言葉では、どのように慰めたらよいのか、わからないことが多いのです。


私たちの国籍は天にありますから、この地上は異邦の地なのです。
この地上では、理不尽な悲しみが実に多いのも当然なのかもしれません。

私たちをこの罪の世から救い出すために、父なる神様は御子をこの地上にお降しになりました。
私たちの罪を償い、十字架にかかられ、三日後に復活されて昇天なさったイエス様は、今、父なる神様の右の座におられて、私たちのために執り成しの祈りをささげておられます。

時が満ち、天に私たちのための住まいが用意されたなら、イエス様はお迎えに来てくださいます。
その日を「ご再臨」の日として、私たちは待ち望んでいるのです。

「マラナ・タ 主イエスよ、来たりませ」
とクリスマスにもまた、ご再臨を待ち望む信仰を新たにしたいと願います。