ごきげんよう! さわこです

以前、「日常」のところで書いた記事ですが・・・
朝祷会の「十人のおとめ」の説教の流れに乗って、もう一度アップします。

「キリストの実物教訓」第29章 花婿を迎える準備・EGホワイト著
ここはマタイ25:1-13に基づいて書かれている。
抜粋、要約しながら紹介したい。

キリストは、弟子たちとオリブ山に座しておられる。
夕やみのとばりが空を覆い、目の前には、あかあかと灯りが輝いている家が見え、付近には人々が集まっている。やがて、婚礼の行列が現れるしるしである。

東洋では、婚礼は夜、行われるところが多い。
(欧米人はパレスチナ地方のことを東洋と呼ぶのだなあ。極東にある日本から見れば、ほとんど東洋とは言えないように思うのだが、EGホワイトの時代には中近東という呼び名はなかったのだろうか、と「東洋」という言葉に違和感を持ちながら読み進む)

花婿は花嫁を迎えに行って自分の家まで連れてくる。
婚礼の行列は、たいまつを灯して、花嫁の実家から、招かれた客のために宴会の用意がしてある花婿の家まで行く。
花嫁の家の近くには、それぞれ火のついた灯りと油壷を持ち、白い衣をまとった10人のおとめがいる。
そして花婿の到着を今か今かと待っている。

キリストはその光景をごらんになり、10人のおとめのたとえ話をなさった。

行列はなかなか現れない。待っていたおとめたちは疲れて眠ってしまう。
すると夜中に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声を聞く。

おとめたちは灯りを整えて、急いで出かけようとする。
ところが5人のおとめたちは油の用意を怠っていた。
あわてて「油を分けてください。私たちの灯りが消えかかっています」と頼む。

ところが、用意のできていた5人のおとめたちは、分けるだけの余分の油は残っていない。
「店に行ってお買いになるがよいでしょう」と彼女たちは答える。

買いに行っているうちに、行列は彼らを置いて行ってしまった。

油を買って灯りをともし、慌てて追いかけていったおとめたちが、婚宴の席に着いたときには扉は閉じられていた。

婚宴の主から「わたしはあなた方を知らない」と言われたのである。
彼女たちは取り残されたのである。


このたとえは、キリストの再臨直前の教会の説明である。

主の再臨を待望する信者たちは二種類あることを示しているのである。
彼らは純粋な信仰を表明するので、おとめと呼ばれている。
あかりは、神の言葉を表している。
油は、聖霊の象徴である。

たとえの中で、10人のおとめは、みな、灯りと油の器を持っていた。

しばらくの間は何の相違も見られない。キリスト再臨直前の教会も同様である。

すべての信者が聖書の知識を持っている。
すべての信者はキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもってキリストの出現を待っている。

しかし、時間が長引いて信仰が試みられるのである。

「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がしたとき、準備のできていない者が多いのである。彼らは油を持っていない。つまり彼らには聖霊が欠けているのである。

神の聖霊がないならば、どんなにみ言葉の知識があっても役に立たない。
聖霊を伴わない真理の理論は、魂を生かすことも、心を清めることもできない。


聖書の戒めや約束をどんなによく知っていても、神の霊がその真理を心に深く刻み込ませなければ、品性は変えられない。

聖霊によって、目が開かれるのでないならば、人は真理と誤りを見分けることができず、サタンの巧妙な誘惑におちいってしまう。

思慮の浅いおとめたちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。
彼らは真理に関心を持ち、真理を擁護し、真理を信じる人々に引き付けられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていない。

彼らは古い性質が砕かれていない。
喜んでみ言葉を受け入れるが、その原則を自分のものとしないのである。
その感化は永続しない。石地の聴衆と呼ばれている。

聖霊は、人が心の中に新しい性質が植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。

ところが、思慮の浅いおとめによって代表されている人々は、表面的な働きに満足している

彼らは、神を知らない。
彼らの神への奉仕は形式化してしまう。

この種類の人々は、危険な時に平和、無事と叫ぶのである。
安泰の夢をむさぼって危険を感じない。
しかし、その惰眠から驚いて目覚めて、自分の欠乏に気づくと、その足りないところを他人に補ってもらおうとする。

ところが、霊的なことにおいてはだれも他人の欠乏を補うことはできない。

他の人に変わって、聖霊を受けることはできない。

聖霊の働きの実である品性を、人に分与することはできない。

品性がわかるのは危機においてである。

その時に、神の約束に真の信仰をおいているかどうかがわかるのである。
恵みの時の終わりに、最後の大きなテストが来るのであるが、その時では、魂の必要を満たすには遅すぎる。


10人のおとめたちは、この地上歴史の夕暮れ時に待っていた。
彼女たちはクリスチャンであると公言していた。
見たところ、同じに思われたがそのうちの5人は用意ができていなかった。

最後の日に、多くの人はキリストの御国に入ることを要求して「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって〇〇したではありませんか」と言うが、主は「あなたを知らない」と言われるのである。

地上生涯において、キリストとの交わりに入っていなかったのなら、キリストの霊との交わりをなおざりにしていたなら、除外されるのである。

今、キリストとかけ離れた生活をしていながら、天においてキリストとの交わりにふさわしいものとなることはできない。

花婿が来たのは、真夜中であった。
最も暗い時であった。
キリストがおいでになるのは、この地上歴史の最も暗黒の時である。

この最後の時代には、様々の誤り、異端、惑わしが急速に増加しサタンが世俗の人々だけでなく、主イエス・キリストの教会と称している人々をも欺くのである。

この霊的暗黒の夜に、神は「光あれ」と仰せになる。

人間も神の愛が絶えず注がれることによって、光を放つことができる。
喜んで受けさえすれば、だれでも聖霊に満たされるのである。

キリスト教は、ただ罪の赦しを与えるだけではない。
まず、私たちの罪を取り去って、その空いたところを、聖霊が満たすのである。

キリストの恵みを受けているのであれば、光はあなたの内にある。
障害物を取り除くならば、主の栄光はあらわれるのである。
内住のキリストの栄光に、人々は捕られるである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はここを読んで、聖霊の働きの大切さが良く分かりました。
神を知ることは、知識だけではないことも。

このたとえを、親切、同情、愛し合うこと、こうしたイエス様の教えを物差しとして読んでしまうなら、肝心な大切なことが見えてこない。

仲良くしましょう、困っている人を助けてあげましょう、
そのために犠牲になることをいとわないようにしましょう。
私たちはそもそも愛の足りない者ですから、
愛の足りなさに負い目を感じているものですから、
あらゆることをそうした尺度で読んでしまう傾向があるのではないでしょうか。

でも、イエスさまの教えのすべてをそういう枠の中だけで理解してしまっていいものでしょうか・・・
聖書の究極のメッセージは、
世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒なのです。


マラナ・タ
イエス様、聖霊を求めます。
聖霊を注いでください。
あなたのみ教えを正しく理解できますように。
私たちの思いをはるかに超えた神様の大きな愛をたたえます。