ごきげんよう! さわこです

今日の通読箇所は、詩編11編―14編と箴言28章

詩編12:2
人はみな、その隣り人に 偽りを語り
へつらいのくちびると ふたごころをもって語る。

実際にそうなんです。
心穏やかな時には、人はいくらでも取り繕うことができる。
しかし、緊急時や心が騒ぐときには、メッキが剥げてしまう。
自分の良心やポリシーに反して、偽りを語り、人にへつらい、ふたごころの者となる。

聖書は語るのだ。「人はみな、偽りを語り、へつらい、ふたごころの者である」と。
人は、みな、そうなのだと。
例外はない。私だけは違う、そうではない、と言わんとしても神様は人の心の底を見透かしておられる。
「あなたもふたごころの者だ」と神様は私のこともそう言われるのです。

何と悲しいことでしょうか。
しかし、それが、人の現実なのです。

そんな私たちのためにイエス様は十字架におかかりくださった。
イエス様を信じることで、イエス様の正しさのゆえに、イエス様の義の衣をかけてくださって、私たちはふたごころの者から、直心(じきしん)の者へと造り替えられる。
神様が創造されて「はなはだよかった!」とおっしゃった時の完全な者に戻ることができる。イエス様のおかげで。


さて、茶の湯で「直心」(じきしん)と名付けられた茶杓があります。
直心とは、仏語で、正しくまっすぐな心のことであります。
茶の湯の道を通して、神様の(みほとけ)のみ前に、真っ直ぐな素直な心となれるように精進を重ねてまいりましょう・・・という意味合いで名付けられたものです。


神様に茶の湯を学ぶようにと示されて丸8年学びました。
平成18年の11月23日、雨降りの勤労感謝の日が最初のお稽古日でした。
教会のパスファインダークラブのご奉仕を終えて、大急ぎでお茶室に向かったことを覚えています。

茶の湯の心はキリスト様の心、という確信を持っていましたから、機会があれば学びなおしたいとの思いを持っていました。

パスファインダークラブの新春こども茶会の指導者が引っ越されてしまったために、私が学びなおすことを決意しました。

神様は、不思議な方法とタイミングで、茶の湯の師匠と再会させてくださいました。

知らなかったことを知る喜び。

茶庭、茶室の造りのうちに、キリスト教の教えが秘められていることを、実際に体験したのでした。

私のお稽古は夜でしたから、足もとを照らす灯篭の灯りをたよりに、露地を歩き、つくばいで手を洗い、口をすすぎ身を清め、お茶室に入りました。

お床にかけられた掛け軸は、いわゆる禅語でありますが、その言葉の中に私は聖書のメッセージをその都度、見出すことができました。

若い頃に1年ほど学んだだけでは全く身についていませんでしたから、何もかも新鮮で、新しい知識を学ぶ面白さに、月に二回のお稽古が楽しみでなりませんでした。
また、茶の湯を通して出会った友とは、茶の湯の親友と呼べるほどの心のつながりを持つようになりました。
神様には彼女と出会わしてくれるという目的もあったのかもしれません。

しかし、何かを始めるということは、終わるときが来ます。

「私、11月いっぱいでお茶をやめようと思うの・・・」と夫に言ったとき、夫は
「・・・そうか・・・何か始めたなら、終わるときも来るものだからな。やめる時がきたのか。それなら、やめたらいいね」と言ってくれたのです。

夫の言葉を聞きながら、聖書の言葉が浮かんできました。

「天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時がある」伝道の書3:1
そして、「生まれるに時があり、死ぬにときがある・・・」
と様々な定まった時が記されて、最後の11節には、このように記されています。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし、人は、神が行われる みわざを
初めから終わりまで見極めることはできない」

ひとつのお稽古ごとを長く続けるには、いくつかの条件が満たされなくてはなりません。

次第にそれが難しくなってきて、これ以上無理して続けるならば、いろんなことに支障をきたすことが予想できるようになりました。

「始めるに時があり止めるに時がある・・・神のなさることはすべて時にかなって美しい」
との御言葉を思いました。

神様は目的を持って、私に茶の湯を学ぶように示され、そしてやめる時も示されているように思えました。
神様のみこころならば、再び学ぶ機会をお示しくださるでしょう。
今は「止めてもよし。無理はするには及ばない」そう仰ったのだと思いました。

明後日のお稽古で、しばし、茶の湯の世界からは離れます。
しかし、茶の湯の世界の中に、キリスト様の心が秘められていることを知り体験してきたことは、私のクリスチャン人生の中で宝物となりました。


マラナ・タ
茶の湯を通して、私のキリスト信仰を育ててくださった神様ありがとうございます。
素晴らしい師匠、素晴らしい茶の湯の友を与えてくださった神様ありがとうございます。
教会生活が長くなると、次第に教会関係者ばかりとのお付き合いになってしまうものですが、私の信仰の世界を広げてくださった神様ありがとうございます。