ごきげんよう! さわこです

90歳を過ぎた母上を見ている友人がいます。

母上は元教師で、それはかくしゃくとした方でした。
いつもにこやかな態度で、私もこのように年を重ねたいと願う理想のお年寄りでした。

ところが寄る年波にはかなわず、物忘れは多くなり、我が強くなり、娘の言うことをきかなくなり、今までとは感じが変わってきてしまって、娘さんである私の友は疲れ果てているのです。

何に心が疲れるのかと言えば、そのような母上に、きつく当たってしまう自分に疲れているのです。

しっかりして頼りになっていた母親の人格が徐々に崩れていく姿に、悲しみと情けなさとが相まって、怒りとして母親に接してしまう。

いけないとわかっているのに、また、きついことを言ってしまった・・・と悔やんでしまう。


私も、母が老いていく過程で、しっかりしていた母が、頼りなくなり、物忘れがひどくなり、自己中心的になっていき、「思春期のわがままお嬢さんになっちゃったねえ・・・」
と弟と、苦笑いしたものでした。

その母も、四月、桜の頃に、再臨の希望を胸に、つかの間の眠りにつきました。
87歳と一か月でした。
苦しむこともなく、あっという間に、亡くなったのでした。

弟が母と暮らしていましたから、弟のストレスは私の比ではなかったはず。
彼女の気持ちと弟の気持ちをいつも重ねて、彼女の話を聞くのでした。


「きつく言ってしまってから、後悔するのよ。後悔するなら、言わなきゃいいのに、自制できないの。」

「あなたの申し訳なかったという気持ちは、祈りとなって、天の神様にまで届いているわ。だから大丈夫よ」

彼女の目に涙が光り、笑顔がもどりました。


マラナ・タ
神様、私の唇に語るべき言葉を与えてくださってありがとうございます。
あなたの助けがなければ、憔悴しきった彼女に、私は何もできませんでした。
神様、今日も一日、その方のそばにいて差し上げてくださいますように。