ごきげんよう! さわこです


私は、自分の受け持った子供たちに、バプテスマを私からは直接に勧めることはしない。
分級で、聖書を共に学び、その後の礼拝に共にあずかっていると、その子供の霊の状態が次第にはっきりしてくる。

ああ、時が近づいているな。
この子にとって、決心の時が迫っているな。

そう、聖霊様が気づかせてくださる。

「もう6年生になったから」
「○ちゃんが受けるから、一緒に」
「中学生になったら学校が忙しくなって来られなくなるから、小学生のうちに」
「代々、クリスチャンのホームに生まれたんだから、あなただけ天国に行けなくていいの?かなしいなあ」

今まで、このように子供たちにバプテスマを勧める声を聞いてきた。

人それぞれだから、私にはあれこれいう資格はない。
以上にあげた理由が、キリスト様を信じて、決心に至るきっかけとなり、後になって、あのときに勧めてもらってバプテスマを受けておいてよかった!
というケースもあるだろう。

しかし、バプテスマの決心は、神様の霊の世界だ。
聖霊様の招きに、その子の魂の奥にある霊が、喜んで応答するときに決心できるのだ。
親であっても、教師であっても、きょうだいであっても、
その領域に踏み込むことは、神様の権威に口出しすることだ。
不遜なことだと、私には思えるのだ。

だから、一人の子供がバプテスマの決意をすると、この機会にあの子もこの子も・・・
とざわめき立ってはいけない。

そういう誘惑があるのだ。
バプテスマはおそろいのクリスチャンの記念バッヂではない。

4年生のはなちゃんがバプテスマを受けたいと言ったとき、
私は、彼女の言葉が、5年生のかいとくんと、6年生のかのんさんの、魂の奥に秘められた思いに引火することがわかっていた。

三人の霊が満ちているのを、私は近くて見てきたからだ。

彼らは、自分たちから、ご両親に、牧師に、思いを告げた。
私は隣で見ているだけだった。

そして一年前の11月2日、バプテスマを受けた。
バプテスマは、いつも感動するのだが、今回は特別に感動が大きかった。
それは、この決心は「ひとのわざではない」ことがはっきりと見えていたからだ。

聖霊様に導かれて、その応答として、バプテスマを受けた彼らは、そのままにすぐ弟子となった。
イエス様を信じることと、弟子として、教会員として、仕えるということがすでに分かっているのだった。

彼らの礼拝に与る態度、ご奉仕に参加する態度、安息日学校の分級での生き生きした学習態度。

どれをとってみても、イエス様に彼らの目は釘づけだ。
「神の国と神の義をまず、求めなさい」
それが、出来ている。
恵みによって出来ている。

強制されたからでもなく、
人に合わせようというお付き合いの精神でもなく
その場の雰囲気に流されてというのでもなく
教会での地位を獲得しようという競争心でもなく
人にほめられようとするのでもなく

いのちの水が彼らの霊のうちにあふれだし、イエス様を求める、イエス様とともに歩む流れに乗っている。
いのちの川で、気持ちよく泳ぎ遊んでいる彼らを私はいつも見ている。

彼らの親御さんの信仰姿勢が与える影響力は大きい。
親御さんたちの親力の偉大さも、私に伝わってくる。

親御さんの真摯な信仰を子どもは見ている。
クリスチャンの在り方を学んでいる。

子供のクラスを担当させてもらって、なんと私は幸いな者だろうか。

マラナ・タ

クラスの子供たちは私の信仰の親友です。
共にイエス様を見上げて、神の国を目指して歩む同志です。