ごきげんよう! さわこです。

昨日、祈祷会出席のために教会へと向かう自転車の上で
気づけば、み言葉を唱えていた。

我がために 人 汝ら ののしり また責め 偽りて さまざまの 悪しきことを
言うときには 汝らさいわいなり。
喜び 喜べ、天にて汝らの報いは大いなり。
汝らより 先にありし 預言者たちも かく責めたりき。


山上の垂訓の中の言葉である。
日基讃美歌についている交読文でマタイ5章3-12節を暗誦した。


新共同訳では
わたしのために ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


なぜ、私が文語訳での暗誦を選んだかと言うと、
字数が少なく、調子が良いので暗誦しやすかったからである。

私は、努力が苦手な怠け者なので、自分に見合った方法をとっているわけです。

「図々しい人」「不誠実な人」と言われた心の痛みの一端と、それを祝福に変えてくださった神様の業への感謝と驚きを書いたばかりである。

そんな背景があってか、この暗誦していた聖句が私の口をついて出てきたのである。


イエス様のために、ののしられ迫害され、身に覚えのないことで悪口を言われる時には幸いであるということである。

人は人間関係の中で生きているから、ののしられること、悪口をいわれること、こうしたことを一度も経験しない人はいないだろう。

イエス様を信じることの故に、ののしられ迫害されるという意味だと思う。
聖書の神様を信じて、正しく生きてきた預言者たちが、責められたり迫害を受けたり、殺されたりしたのである。

さて、私はそうした崇高な信仰のゆえに、悪口をいわれたのだろうか。
そうではない。
私のキャラクターのゆえであり、相手のキャラクターのゆえであり、キリスト信仰の故ではなかったことは確かである。

自業自得だったのかもしれない。
人間の哀しい「さが」の故だったのかもしれない。


それなのに、この御言葉が口について出てきたのだ。
迫害を受けた預言者たちやイエス様と自分を同列において慰めを求めているとは・・・
なんて図々しい私。

御言葉をいつも自分に都合よく解釈し利用しているとは・・・
なんて不誠実な私。


遠藤周作の「沈黙」の最後をふと思い出した。
踏み絵のイエス様が「私を踏んでいいよ」と言われた場面があった。
ずいぶん昔に読んで、手元にその本もないので、私の記憶があっているかどうか・・・
なのだが。

そんないいかげんな私のためにイエス様は十字架にかかられたのだ。
そんないいかげんな私が神様にこの上なく愛されているのだ。

聖書が教える神様はなんと素晴らしいお方だろうか。

マラナ・タ
安息日が始まっています。

♪十字架の血潮もて 我さえ あがない
神の子としたもう 恵みの主をほめん