ごきげんよう! さわこです

私は「ゆだねる」というフレーズに居心地の悪さを感じています。
この言葉は、ダントツに人気のある教会用語です。

そして、教会の中でもクリスチャンの中でも、行き交います。飛び交います。

ところが、私は昔からこの言葉に「イラッ!」とする。

はっきり言うと、その理由は

①思考停止にさせられる

②上から目線の見下した空気がある

③自己満足が伝わってくる

④分かったつもりになる

⑤教会で疎外感を感じさせる


綺麗な鞘の中に入ったナイフのような言葉だと思うのだ。

そこで、最近は
この言葉を別の言葉に置き換えて用いるようにしている。

状況に応じて、また相手の感性に合わせて。

いくつか挙げてみよう

①自分の思いを明け渡す

②神様をとことん信じ切る

③いつもイエス様を見上げる

④主を待ち望む

⑤雄々しくあれという主の励ましへの応答

⑥自分の手のうちにある悩みや困惑を、神様に持っていく。
ときには、強く投げ出す。

⑦ありのままの困った私そのものを、神様が受け止めてくれると信じて投げ出す。

⑧何が起きても、がっかりしても、すぐに立ち上がって
「このことも神様のお許しがなければ起こり得なかったことだ」と神様への信頼の思いを握る。

そのうちに他にも良い表現が浮かんでくることだろう。

「ゆだねる」という言葉を語るとき、また聞いたとき、
いままで自分に培われてきた感情や情緒が、この言葉を支配し始めるように思う。

神様の言葉ではなく、自分の思想の中で、受け止め理解するのだ。
あまりにもあいまいな表現だからだ。

数年前から祈祷会でチャンスがあればこの意見を語る。
不快な顔をすることなく、私の意見を、意見として聞いてくださり応答してくださる牧師には感謝だ。

そしてまた、このように感じている人が、私だけではないことも知った。

祈祷会の平均年齢が若くなったゆえに、私も発言できるのかもしれない。

昔むかしの祈祷会は、
「ゆだねましょう」という言葉で、分かち合いはストップしてしまった。

信仰の思いを言葉に変換する霊の力がまだまだできていなかったので、
私も多くは語らなかったのだが。語れなかったのだが。

あいまいな情緒的愛の用語が多く用いられた雰囲気だったからかもしれない。

昨日は、祈祷会の終わったあと「ゆだねる」ことについいて、しばし、聖書的なディスカッションができたのはうれしかった。

マラナ・タ

あまりにも高く、深く、大きい神様を自分の言葉では表現することはできません。
でも、分かったつもりになって思考停止してしまうことは、神様に対して不誠実なのではないでしょうか。
神様の御前に、いつも正直で誠実であれますように。