ごきげんよう! さわこです

前回、図々しいひとと呼ばれたことを、書いたのだが、連想ゲームのように十数年前に言われたことを思いだした。

「あなたは不誠実な人だ」という言葉である。
その人の提案したことが通らなかったとき、私のうちに長い電話をかけて来て
「さわこさん、あなたでしょう。裏で手をまわして、私の意見をつぶしたのは!」
と言われたことだ。
そして「あなたは不誠実な人だ」と結論付けられた。

「私は誠実を尽くしたつもりですが、あなたに不誠実な人と見えたのなら、それはそれで仕方のないことです。」と答えた。

彼女の話を聞きながら、彼女ってこういう精神構造の人だったのだ、そのつもりで、付き合わなくてはならないと学習した。

昔の私なら、「不誠実な人」「図々しい人」と言われることに、いたく傷ついただろう。
失礼な!と腹を立てたことだろう。
しかし、キリスト様を信じる信仰を頂いてから、私は変えられていった。
勿論、聖書は「不誠実」や「図々しさ」を戒めており、肯定してはいない。

しかし、誠実を尽くしても、配慮を尽くしても、「不誠実なひと」「図々しい人」というレッテルから逃れきることはできないのだ。

もちろん、人間は不完全であるから、私は「不誠実な者であり図々しい者」と言われても仕方がない。
自分を省みて反省することは大切だ。
だが、自己卑下してしまってはいけない。
自虐的になってもいけない。
その人の機嫌をとるために、平謝りする必要もない。

穏やかに丁寧に、自分の見解を伝えることだ。
そうして、わかってくれる人もいるし、わからない人もいる。
多種多様な人と、私たちは日々付き合っている。
分かってもらえない人も、いつか分かってくれるかもしれない。
わからないままかもしれない。それでもいいのだ。

神様は、「命の書」とともに「覚えの書」も「罪の記録」も持っておられて、この地上人生で私のしたことのすべては記録されている。
そして、今、私の人生記録は調査されているのだ。
1844年10月22日より、天の聖所から至聖所にイエス様は移られて調査審判は開始されている。
神様と共に生きてきたかどうかが、調査されている。
すべての人の行為は、神の前で調査され、忠実であったか不忠実であったかが記録されている。
私の品性と生活は吟味されているのだ。

おそろしく感じるだろうか。
私は神を恐れているが、恐怖ではない。
畏れ敬っているのだ。畏怖の念だ。


調査しているのは、我が救い主、我が贖い主イエス・キリスト様であるのだ。
なんという安心なことだろう。
私の不完全さをご存知の方が、私を天の法廷で弁護してくださる。
日々の私の至らなさを、イエス様が執り成して祈っていてくださる。
    ( E・Gホワイト著 各時代の大争闘 第28章 天における調査審判を参照)

そのことを知ってからは、誠実を尽くしてなお、不誠実だと言われても、配慮をしてなお、図々しい人と言われても、何の悲しむことがあろうか、いらだつことがあろうか、怒ることがあろうか、嘆くことがあろうか。

イエス様のくださる平安とはこういうことなのかもしれない。


ネヘミヤ13:14
「わが神よ・・・わたしを覚えてください・・・わたしが行ったよきわざを拭い去らないでください」

詩編56:8
「あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に記されているではありませんか」


マラナ・タ
主イエスよ、あなたを信じる信仰をありがとうございます。
聖書をしっかり学ぶ喜びを与えてくださりありがとうございます。
感情に流され捕らわれることから解放してくださってありがとうございます。
そして、悔い改めの機会をいつも与えてくださって
信仰がマンネリ化することから守ってくださってありがとうございます。
自分の至らなさゆえの罪の告白ばかりでなく、
み言葉に根差して、神様への信頼と感謝と讃美を告白いたします。