ごきげんよう! さわこです

ずいぶん前のことだが、親しくしている方のお宅を訪問した。
彼女は喜んでくださって、あなたのために、と言ってご馳走やデザートをたくさん準備して待っていてくださった。
お料理上手彼女のことだから、とてもおいしかった。
あまりに美味しいのでお代りを頂いた。
もっと、もっと、と勧めてくださる。
「いくらなんでも、無理ですよ」
「そんなことないでしょ。あなたはお若いんだからまだまだ入りますよ」
「じゃあ、あと少し・・・」と言って、がんばってご馳走になった。


数か月後、共通の友人に
「さわこさんって、図々しい人ね。お代りを勧めたら、いっぱい食べたのよ」
と話したのだ。
私はちょっと悲しくなった。
いくらすすめてくださっても、お断りをしなくてはならなかったのだ。
「あなたのために作ったのよ」という言葉に、ついつい頑張ってしまった私は思慮が足りなかったのだ。
もてなしの言葉を真に受けて、裏に隠されている意味を推測できなかったのだ。

私は大切な友のことを他の人に「あの人って図々しいのよ」と言えるだろうか。


私が「図々しい人」と評価されたことよりも、友のことを「図々しい人だ」と人に話す彼女に心が騒いでしまったのだ。
彼女は、私が思うほどには私を大切な友人とは思っていなかったのだ。


しかし、次第に、自分がどれほど図々しい人であるのかが見えてきた。

イエス様を信じさえしたら、すべてを赦し受け入れ天国に連れて行ってくださるということを、遠慮なく「ありがとうございます」と受け取っているのだから。
確かに私は間違いなく図々しい人だ。

福音を信じるということは、図々しくなくては出来ないのかもしれない。


「私など、赦しを受け取るにはふさわしくありません」と神様のお招きを遠慮することが慎み深いことにはならないのだが、そう言って何年来、神様の招きを断り続けている人もいる。



そしてまた「お代り」を頂いたことは貪りに通じるのではないのか、ということにも気づかされたのだ。

気づかぬうちに「むさぼっている」私がいる。
世界には飢餓で死んでいく人も大勢いる。
そんな中で、お代りして頂くことは、確かによくない。
飽食の国、日本にいて、むさぼり食うことに鈍感になっていた私がいる。


アドラ(SDAの国際援助機構NGO団体)では「一週一食募金」という募金箱がある。
週に一度、一食を抜いてその金額を募金箱に入れていくのだ。

私は、その小さな募金箱を週に一度食事を抜いて入れてはいなかった。
手持ちの小銭を入れたり、誰かに野菜やお菓子をいただいたときに、感謝の気持ちでいれたりしていただけだった。


「さわこさんは図々しい人」という評価を受けたことを通して、私は二つの大事なことに気づかされ祝福を受けた。


マラナ・タ
週に一度は、食事を抜くことにしよう・・・
空腹をしっかり感じることにしよう・・・
そうして、私よりもはるかに貧しい人のため生きることができますように。

主よ、私のこの祈りをお聞き届けください。