ごきげんよう! さわこです

十月の朝祷会、前回は台風の襲来ということで中止だったので4週間ぶりだ。
十月も終わりが近くなると。朝夕は冷え込むようになった。
私の自転車は冷たい空気をかき分けて進む。
帰り道は、きっと汗ばむ陽気だと思って、カーデガンを羽織っただけで、自転車に飛び乗ったのは失敗だった。
こんな時に限って、スカーフも持っていない。
「ああ、神様、どうぞ風邪をひいてしまいませんように。私の健康をお支えください」と祈りつつ20分、ペダルを踏む。


今日のメッセンジャーは、腹話術やアシュラムでご一緒しているS牧師。
ローマ14:1-12によって、神様からのお言葉のお勧めを頂く。
月に一度の腹話術の会のたびにショートメッセージを頂くので、SDA母教会の牧師の次にS牧師のお説教にあずかっている。


私たちはキリストによって救われていながら、私たちの弱さのゆえに、思ってはならぬことを(裁くこと、相手を侮ることetc・・・)思ってしまうことがあります。
パウロはローマ教会でも裁きのあることを聞いていて、この手紙を送り、どのようなことを大切にしてキリスト者は生活をしなければならないかを訴えたのです。
しかし、パウロは具体的に微に入り細に入り、教えているわけではなく、実際的にどのようにするのかは、各自にゆだねているのであります。

神様はすべての人を受け入れておられるのですよ。
「・・・神はこのような人をも受け入れられた」ローマ14:3
その中には「自我」の残っている人、つまり古い自分に縛られている人も含まれるのですよ。
どのような人も、人は等しく神の僕(しもべ)なのですよ。
しもべの主人は、人ではなく神ご自身なのですよ。

私たちみんなは、「主キリストのもの」なんです。
「主によって贖われている」のですよ。
それが神の業、神の奇跡なんです。

「さばき、あなどる」ことはこの世界の現実ですが、私たちみんなは主に贖われている!
このことをいつも覚えていようではありませんか。

わたしたちみんなはローマ14:12にあるように
「・・・神の前に申し開きをしなければならぬ時が来るのです」


私たちが救われたのは、人を裁くためでも自分を卑下するためでもないのですよ。
そのことを覚えているなら、どんなときにも相手を尊敬して受け入れることができるのではありませんか。


以上がS牧師のメッセージの要約である。


20数年前、聖書研究を始めた頃のころ、ある人に話したことがある。
その女性はとても聡明でバランス感覚のすぐれた方だった。
「さわこさん、気をつけてね。教会に行くようになってから、罪悪感に責められて神経を病んでしまった人を知っているの。教会にはそんな危険性があるってこと覚えておいた方がいいわ」


預言の声通信講座が面白くて、彼女にも勧めようと思ったのだが、彼女は私の話に乗ってくることなく、かえって私に注意を促してくれたのだった。
残念だった。
転勤族の彼女は、それから1年もたたないうちに引っ越していかれた。

聖書の記述の一部分に熱心になってしまって、人をつまずかせたり、誤解を与えたりということはありがちなことなのだ。
聖書を誤用するとき、人を責めるか、自己を責めるかというサタンの罠にかかってしまう。

彼女は、聖書の真実の福音に触れることなく、教会に関して一種の先入観を抱いたまま、引っ越していかれた。


あれを食べた、これを食べた、とチェックをいれて
「偶像に備えていたものだってあなた、知らなかったの?不注意ねえ、そんなことでは神様に従っているとは言えないわよ。あなたはまだ新人だから、こうして注意をしてあげているのよ」
なんて、これほど、露骨に言われることはなくても、似たような場面に遭遇したことはないだろうか。


偶像の供え物の肉でなくても「レビ記11章の食規定」に反していますよ。
その魚に鱗はあったの?その肉は豚肉じゃあなかった?

あげくに
「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点で有罪となる」
とヤコブ2:10を引き合いに出された日には、教会嫌いになってしまうことだろう。

そんな怖い集まりには行きたくなくなるだろう。

聖句を誤用して用いられたヤコブさんも気の毒だ。

ヤコブ書は、かのルターにも誤解されて「わらの書」「屑の署」とまで言われたのだ。
かのルターも、立派であったけれど、所詮は人間で完璧ではなかったということだ。


パウロの提起しているこの問題は現代に生きる私たちにも言えることだ。
昔のローマ教会員だけの問題ではない。


マラナ・タ

サタンは私たち以上に聖書を知っています。
私たちが中途半端に聖書の言葉を振り回す時ほど危険なことはありません。

「我らを試みに遭わせず 悪より救いだしたまえ」
いつもこの祈りとともにありますように。