ごきげんよう! さわこです

通読仲間の信仰の友が貸してくれた本
「通読にチャレンジしよう!」
いのちのことば社 下川友也 著


本の帯にはこう書いてある。
聖書は大好きだけれど 通読が苦手なあなたに!
聖書全巻通読1000回を目指している達人がその秘訣を伝授する


「あんまり参考にはならないかも・・・通読のスタイルがあなたとは違うから。
購入するほどのことはないと思うから、貸してあげる」

彼女は信仰の親友と言える存在。
どれほど、共通の信仰書で互いの霊が燃え、慰め合い、励まし合ってきたことか。

そんな彼女の見解に、私は期待半分で読み始めた。


著者の下川牧師は「通読千回」へのこだわりをもっておられる。

聖書通読、多読へのチャレンジは、信仰生活40年、牧会19年、神学校教師13年という経験の中で、かなり大切なことではないかと、年々思うようになった(1998年12月)と書いておられる。


通読毎月二回!で年間通読は24回になる。そしてそれは最低の回数。
もっと多く読まれる年もあるのだ。
ただただ驚いて、頭が混乱してしまったのだが、要するに二週間で聖書全巻を読み上げる理屈になる。

私は、内容をじっくり味わいながら、時には計算機を出して、30アンマって何メートルになるの?などと考えて、情景を頭に思い描きつつ読むのだから、そんな調子では二週間で読み上げるなんて想像もできないことだ。


の名前がどんどん出てくるときには、閉口してしまい、斜め読みをしてしまうのだが、イスラエル人、ユダヤ人は、この名前で聖書が身近になるのだろうなと思ったりする。

だって、先祖の名前なんですからね。
ひじいさん、ひひじいさん、ひひひじいさん。
大伯父さん、そのまた大伯父さん。
先祖を同じくしていることの確認ともなる。


私の教会に、私の祖父と、彼女の祖父が兄弟になる人がいる。
彼女と私はおじいちゃん同士が兄弟なのだ。つまり「ふたいとこ」ね。
彼女には、孫が4人いる。
その孫から数えると、ひひじいさんになるわけ。

私は四人の子供たちに、(子供聖書クラスの私の生徒になるので)

「あなたたちのひひじいちゃんは、私のおじいちゃんのお兄さんなのよ。
あなたと私は血がつながっている親戚なの」
と話すのだ。

お墓参りに行くと、彼女の祖父母のお墓にもお花を供えて手を合わす。
同じ墓地にあるのだから。
偶像礼拝ではない!(笑)念のため。

だから、イスラエルの民は、私が退屈するところで、きっと感慨深いのだろうな・・・
と思いつつ、飛ばし読みしているのだ。



さて、下川先生は、野球選手が素振りを数千本、水泳選手が毎日数万メートル、といった訓練をしていることを例にあげている。

そういえば、ピアニストやバレリーナは一日練習を休むと、技術が後退すると言って練習を欠かさないと言った話を聞いたことを思いだした。


「私たち、聖書をライフワークとするからには、人の目に度を越えていると見えるようなチャレンジをしてもよいのではないか。
神の前に祈り、みことばに励むことは、人々が評価してくれなくても、良いこと、尊いこと、価値あることなのだ。このことに私たちは確信をもって、プロフェッショナルに専心しよう」

と書いておられる。


元来、怠け者で、地道な練習のきらいな私は、楽器もお習字も習い事はどれも身につかなかった。
外国語が苦手なのも、同様の怠け者の結果である。

クリスチャンになった今、楽器が弾けたら、外国語が話せたら、どんなにイエス様のためにお役に立てるだろうかと、すごく、残念に思っているのだ。

にも関わらず、今から楽器を習うことも、英会話教室に行く気も全くない。
出来ないことを、悔やんで、チャレンジすることよりも、神様が私に与えてくださっていることに専心しようと思うのだ。

聖書を読むこと、学ぶこと、デボーションの時を持つこと、子供たちの聖書のクラスで指導すること。
その時には、聖霊様に導かれて霊が熱く燃える。
私にはこれしかないのだ。
通読にもっともっとチャレンジしたいとの熱い思いがふつふつと湧いてきた。

しかし、私は、ユダヤ暦にそって作られた通読表をとても愛している。
これをやめるわけにはいかない。
13回目に入ったばかりなのだ。12回目の通読ではどれほどの大きな霊的恵みを受けたことだろう。

では、どうすればいいのか。
そう、2015年の元旦から下川先生方式の通読と二本立てにしたらいい!

私のこの反応に、親友は「さわこさんがそんなふうにこの本を読むとは・・・」
と唖然としていた。

長くなるので、続きはまたね。