ごきげんよう! さわこです。

12年ぶりに貸した本が帰ってきました。

それは、ジョージ・ミュラーの伝記です。

信仰に行き詰まり、祈りの無力さに打ちひしがれ、聖霊様の示しで「読書」を聖別するようになってから、神様は多くの書物を与えてくださいました。

私の霊に力を与えてくれたたくさんの本。

時代を超え、国境を越え、多くの国の信仰者の信仰のあかしを私は読みふけりました。
安息日礼拝、家庭集会、教会祈祷会、教団主催の集会いろいろ、アシュラム。
時間と経済の許す限り参加しました。

神様は私の渇きをご存知で、私の苦しみをご存知で、ふさわしい時に、ふさわしい形で、いつも語りかけてくださいました。


ジョージ・ミュラーの伝記もその一冊
教会のご近所に、二人のお子さんを気持ちよく、教会に寄越してくださる美しい女性がいました。
しかし、ご自分にとって、キリスト信仰の必要をあまり感じておられないようでした。
ですから、表面的な関係から、深まることもないままでした。

信仰とは実際的なもの、自分たちの置かれている環境に影響と指針を与えるものだと、知ってもらえたら・・・という気持ちで、その時、読みふけっていた、この本をお貸ししたのでした。

初心者にとっては、分厚い、活字の小さい本。
彼女のお気持ちにご負担をお掛けしてしまったかのではなかったかと、心を痛めています。

申し訳ないことをしてしまいました。

本好きな私は、相手かまわず(その人が活字が好きか嫌いかを確かめようともしないで)本をお貸ししたり、お勧めしたりしてしまいます。

中には、さわこさんのおかげで本を読むようになったのよ!
あなたに出会わなかったら、いつまでも本嫌いのままだった(笑)
と言ってくださる方もいるので、私はついつい「豚もおだてりゃ木にのぼる」を地でいってしまうのでした、

その女性は、今でも教会や教会員たちに、好意を持っていてくださるよき隣人であります。
しかし、ご近所さんの域を未だに出ることはありません。
私は、その方のつまずきの石となったのかもしれません。

自分の言動を振り返って、自分に焦点を合わせる時、自分の至らなさにばかり目がいってしまって、申し訳ないことをしてしまったと、自分を責めてしまうのです。

そういう信仰の在り方は問題もありますね。
今では「神様ごめんなさい!」と
お祈りすることで、うじうじと悔やむことからは速やかに解放されるようになりました。

さて、私はミュラーのどこに感動したのかをお話します。

ミュラーは孤児院を経営していたのですが、その必要な費用をすべて、祈りによって神様からいただいたのです。
お金や、食料が不足した時にも、寄付や献金をお願いすることなく、スタッフたちと祈るのです。
その祈りによって、必要とするものが与えられてきたのです。


私はミュラーの信仰に強く打たれました。

お金がいるとなった時、私たちは祈りますが、同時に献金を募り、寄付を募ることが普通です。どなたかに、志のある方に協力をお願いするのです。
「いくらでもいいのよ。○○のために助けてちょうだい」とストレートにお願いするのです。

ところが、ミュラーはそれをしなかった

ガガーン!という衝撃でした。

マラナ・タ
主イエスよ。
私たちは不完全で、足りないことばかりです。
あるいは余計なことをしてしまうものでございます。
しかし、神様はそのことをご存知なのです。
どうぞ、私の犯す過ちを、あなた様が取り繕ってくださいますように。
私の関わろうとした魂に、傷を知らず知らずのうちに負わせてしまったなら
あなたが癒してくださいますように。


続く・・・