ごきげんよう! さわこです

今朝は、昨日に続いての良い天気。
昨日は「白露」、季節はゆっくり秋に向かっています。
7時過ぎ、自転車に乗って、主人の曽祖父母の教会に向かいました。
陽ざしはまだまだきついのですが、吹く風は秋の風。ちいさい秋の風。

お財布の中に、100円玉がなかったので、
主人に「朝祷会の朝食代参加費300円をください」と言ってもらいました。
500円玉をくれようとするので、
「ううん、100円玉3個じゃないと困るの。お釣くださいなんて献金箱に言えないわ」
7時半から8時半の祈祷会。
お世話くださっているのが、曽祖父母の教会の教会員のYご夫妻とT姉。

今日はK教会の牧師が説教者です。

ルカによる福音書12:41-44節
キリストの再臨のことについてイエス様が弟子たちにお話になったところです。
再臨については、一般の人は考えることなどないでしょうが、地球の温暖化や頻発する天災を見て、漠然とした不安を抱く人たちも多いことでしょう。

教会は、イエス様が再び来られて、神の国を実現するという約束を信じて、準備しなさい、備えなさいというイエス様の教えに生きる共同体
なのです。

そしてプロテスタントはいくつもの教会・教団がありますが、それでも、イエス様の御約束を信じて、一致する共同体であるはずなのです。
朝祷会はそうした目的で、あらゆる教会の教会員に門戸を開いてくださっています。

イエス様は再臨を待ち望む備えをお話になるにあたり、「・・・時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人・・・」という例えを用いられました。
日々の単純な営みの中に、与えられた務めを果たすようにというわけです。

私は今朝、目覚めてより「主を待ち望め」というフレーズが魂のうちに響き続けていました。
それは、まるで、今朝の朝祷会の序章のような聖霊様のささやきでありました。
そのように、神様は私の霊性を整えて準備させてくださいました。

さて、K牧師は、日常の中で神様のご臨在を体験するにあたり、17世紀のフランスの修道僧ブラザー・ローレンスの話をなさいました。

50歳でパリにあるカルメル会の修道士として入ったブラザー・ローレンスの信仰は次第に注目されるようになり、多くの人々に霊的励みを与えるようになります。

彼の死後、ローレンスが語っていたこと、書いていたことが本としてまとめられました。

「敬虔な生涯  普段の生活の中におられる神」という本です。

実は私はこの本を12年ほど前に読んでいたのでした。
誰彼に貸しているうちに行方不明になり、母にプレゼントした本を、母の死後、自分用に持って帰りました。

私は、本には赤、青、黄色で線を引き、関連した聖句を書き込み、一回目に読んだ日付、再読した日付を記入するのですが、そういうわけで、この本には母の名前しか書き込みがないのです。
どこかに迷子になったこの本が帰ってくるのを待っています。

私は17年くらい前に、読書を「聖別」しました。
それ以来、書物に関して、神様の霊が注がれるようになりました。
キリスト教書店に行って本を眺めていると、「ここよ、ここよ、わたしを読んで」と
本の方から呼ぶのです。
聖霊の神様が、私の霊性に必要とする本を与えてくださるのだと思います。
アンドリュー・マーレーの「謙遜」とともに、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯」もそうでした。

私はこの本によって霊の目が開かれました。
ローレンスは台所でオムレツを焼いた後、床に仰向けになって寝転んで神をたたえるのです。
神をたたえるとはこういうことだ!とわかりました。

主婦にとって、台所は「聖域」です。

私が最初にイエス様に出会ったのもダイニングテーブルでした。
私は台所仕事をしながら、いつもイエス様に語り掛けます。

「ねえねえ、イエス様、聞いてくださいよ・・・実は・・・」

そうして、台所で、私は何度となくイエス様の語り掛けを聞きました。
美しい幻を見せていただいたこともあります。
そうして、病んでいた私の霊性が癒され、立ち上がらせていただいたことは数知れず。

平凡な仕事の中に神の愛をみいだすこと。

平凡な仕事であっても、取り組む心の大切さ。

小さなことでも神のために働き、讃美することが礼拝。

どんなことであっても神のためにするなら意味が生まれる。

神に自分を明け渡すとは、いつも神のことを考えること、それを実践すること、それによって人の魂は神のもと(ふるさと)にたどり着くのです。

いつも親しく神に語り掛けることが大切です。それが祈りです。

神を礼拝し、神を愛することが私たちの仕事のすべてです。

日常の営みの中で、絶えず神に思いを向けましょう。

ブラザー・ローレンスはマザーNに宛ててこのように書いています。

「私は、あなたがその悩みや苦しみから救い出されるようにとは願いません。ただ、神が良いと思われるまでの間、忍耐を与え、強めてくださるように切に神に祈らせていただきます。十字架にしっかりと結び付けてくださる主によって、あなたが慰められるように願います。神が最も良いとされる時に、あなたをその所から解放してくださるのです。主のために苦しむ者は幸いです。そのように、あなたも苦しみや悩みに慣れるようにしてください。主が許されるすべての苦しみに耐える力を求めて、あなたにとって十分だと思われる主の時まで祈り求めてください。」(77ページ第11の書簡より)

マラナ・タ
主を待ち望みます。
ご再臨のその時まで、主と共にいることが、一番の備えであることを忘れないように。
大きなこと、偉大なこと、目立つこと、それらをなすことが備えではありません。
人によっては、そのような使命を頂く場合もありましょう。
与えられた使命は日常のオムレツを焼くことにも、破れた靴下を繕うことの中にもあります。すべてのことを、神様の愛にお答えするためとして行うことができますように。