ごきげんよう! さわこです

イザヤ37章のヒゼキヤ王の祈りを読んで祈る。

天におられる父なる神様
天地万物をお造りになったあなたこそが
地のすべての国々の神様です。

どうか、主よ、耳を傾けて聞いてください。
どうか、主よ、御目を開いてご覧ください。
どうか、主よ、私をこの窮地からお救いください。

私の愛する者たちが、今日も苦しんでいるのです。
そしられ、ののしられ、希望を失おうとしているのです。

主よ、いつまでなのですか。
主よ、いつまで忍耐しなくてはならないのですか。
なぜ、神を神とも思わぬ人が、順境の日々を謳歌するのでしょう。

しかし、私はそのことで、もはや心を乱しません。

神であるあなたが、すでに最も良い答えを
用意してくださっていることを信じます。

その日を忍耐して待つことが喜びとなりますように。

その日を忍耐して待つ日々が、
私のうちから、高ぶりを取り去るものとなりますように。

マタイ11章の獄中にいるバプテスマのヨハネの思いに重ねてさらに祈る。

私が獄中でいるかのような日々には
神が本当におられるのかと、疑いがわいてくることがあるのです。

ヨハネが
「おいでになる方はあなたですか。それとも、別の人を待つべきでしょうか」
とイエスに言い送ったように。

父なる神よ、あなたの大いなる御業の数々に思いを巡らせるとき、
また、あなたの人の目には見えないほどの小さなものへの配慮を知るとき
あなたの御前に被造物たちはひれ伏すのみであります。

あなたは大きすぎて、私の手で測ることはできません。
また、あなたは小さすぎて、顕微鏡でも見ることはできません。

あなたの独り子を、ナザレのイエスとして、この地上にお送りくださり
イエスがこの地上で何をなされたかを知るときに
私たちは神なるお方の本質を知り得るのです。

この地上に生きる人々が神を理解し受け入れるには
キリストがイエスとして、人となって、
現れてくださらねばならなかった。

光が、愛が、イエスという人の形となって現れてくださらねば、
私たちは神を知ることも信じることも出来なかった。

私たちが苦しみに遭うことも
疑いと失意の日々を歩むことも
あざけられ、ののしられ、鞭打たれ、
十字架にかけられたイエスを知ることで

ああ、この苦しみは、
イエスのお苦しみにあずかることであったのだと、納得がわいてくる。

今日も私は聞くことができます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と。
「わたしが、あなたを休ませてあげます」と。
「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。

マラナ・タ
主イエスよ、今日も、私の心においでください。