ごきげんよう! さわこです

今夕は茶の湯のお稽古日。
バス停で待っていると、ご近所のご年配のご婦人が声をかけてくださった。

「着物はいいわねえ。こういう世知辛い時代だから、着物姿の人を見るとほっとするわ。
人は、ころころ変わるものだから、気分の気持ちを他人任せにしていてはだめよ。
自分で、自分うちにある心のページを開いていかなくてはね。」


その方は、いつもはっとするような言い回しをなさる。

きっと、心のひだの深い方なんだろうな。

良い本を読むこと、美しい自然の移ろいに目を向けること、パレアナのようにいいこと探しをすること、そうして、自分うちにあるページを開いていって切り替えるのだ。

着物を着ることもその一つに数えることができる。

「そうですよねえ。諸行無常ですものね。」と思わず答えてしまった。

諸行とは、一切のつくられたもの全て。この世のすべては常に流動変化するもの。

その方は、人の変わり身の素早さに傷を負ったことがあったのかもしれない。

その痛みの中で、苦しみの中で、人の世の「無常」を(無情ではなくて)切に感じたのだろう。

情の無い人だった・・・と恨むのではなく、世も人も常に流動変化するものであることを身にしみて感じとったのだろう。

哀しいけれど、それが「人」というものなのだと。

そして、自分の心の平安を人によって得ようとすることの、頼りなさ、虚しさを痛感してこられたのだ。

自分のことは自分で守る。自分の心は自分で守る。

そして前進することを、自分に課して、自分の内にあるページをめくるという作業に明日を見出しておられるのだ。


5分ほど遅れてバスがやってきた。

その5分で、「自分のうちにあるページを自分でめくる」という美しい言葉をもらった。

今日のお稽古のお軸は「 山家 富貴 千樹銀」
「こんな暑い夏に、またどうして雪なのですか?このお軸は冬にもかけていただいていましたが・・・」

とお訊ねすると、「暑いからですよ」と師匠の答え。
   なるほど!

そういえば、「せめて目からだけでも涼しさを受けてください」と
暑中見舞いに冬山の絵葉書を使ったことがあった。

今日も「唐物」でのお稽古。
唐物では、茶杓は竹ではなく象牙のものを用いる。
象牙のお茶杓の御名は「直心」(じきしん)であった。

素直なこころ、真っ直ぐなこころ。

歳を重ねることによって、こうした心をさらに保つということは大切なことだ。

経験を積むということ、知識が増していくということ、羞恥心が減っていくということ、
渡る世間は鬼ばかりの体験を重ねていくと、心がささくれ立ってしまうこともあるかもしれない。
しかし、そんな中で、深い人生の学びをして品性が磨かれる人もいるのだ。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。ローマの信徒へ手紙8章28節


こんなふうに、ぴったりのみ言葉を神様は思い出させてくださる。
私には、人でもなく、自分でもなく、頼る方がおられる。
何と幸いな人生だろう。


そのご婦人の祝福を祈りました。
主イエス・キリストの恵みが共にありますように。