こんばんわ! ごきげんよう! さわこです。

いつもなら、とうに熟睡している時間です
今夜は茶の湯のお稽古日で「お濃茶」を頂いてきたので、カフェインたっぷり、目はらんらん。

私の流派は「表千家不白流」お稽古を新たに始めて間もなく8年になるのかな?

娘時代は「裏千家」で学びました。
私の時代は、学校を卒業すると、お茶だ、お花だ、お料理だ、
と母親が手ぐすね引いて待っている、そんな時代の名残がありました。

反抗するのも、面倒な私は、「はい、はい」と素直にお稽古に応じたものでしたが、
父の友人の息子のもとに縁付くと、もう、お稽古事からは解放されたのです。

お茶も、お花も、自分の意志で、したくて始めたものではありませんでしたから、何の未練もなくさばさばしたものでした。

しかし、神様の不思議なご計画で、新たに茶の湯を学ぶように導かれたのでした。

クリスチャンになった当時、三浦綾子さんの「千利休と妻たち」を読み、茶の湯とキリスト教の深いかかわりを知って、娘時代にかじった茶の湯を思い出し、その精神性に強くひかれたのでした。

それから、しばらくたって、教会の子供のクラブ「パスファインダークラブ」を持つようになりました。
そのクラブで、こども茶会をすることになったのです。
茶の湯に造詣の深い二人の年輩の信徒が、お手伝いをしてくださいました。

私は、茶の湯の精神が、キリスト様の「互いに愛し合いなさい」と同じであること。

茶室の「にじりぐち」は「狭い門から入りなさい」というイエス様の教えを表したものであり、
刀を置いて、身をかがめて、茶室に入ることは「高慢であること捨てること」「へりくだる心」を表すこと。

そういうことを、小学生の子供たちにわかる言葉で説明してきました。

その後、二人のご婦人が、引っ越されたり、高齢になりすぎて、指導をしていただくことができなくなりました。

そして、神様は、私に再び茶の湯を学ぶように仕向けられたのでした。
同時に、着物生活をするようにも導かれたのでした。
そして月に二回は必ず着物を着て茶の湯のお稽古に行くようになりました。

娘時代は、洋服でのお稽古でしたが、今回は着物でのお稽古です。
やはり、違います。
茶の湯は着物を着ることを前提としていますから、着物の方がお点前をしやすいのです。

そして、今回は明確な目的がありましたから、お稽古も面白いのです。

また禅語のお軸の言葉には、聖書に響き合うものが多くて、私にとってはお軸が一番の興味の対象となりました。

変体仮名で書かれた文字も、クイズを解くような面白味があります。
変体仮名のルールをある程度、知っていると、それなりに読めて理解できるのですから、頭の体操になります。

今日のお稽古は「唐物」でお濃茶の平点前。
お茶は「不白の白」お詰めは「星野園」
お菓子は「深山」お菓子元は「桂」

季節のお花も幾種類も入れてくださっています。

「のしらん」「数珠さんご」「たぬきまめ」「姫かま」「パピルス」「思い草」「しゅうめい菊」

今まで、見たことも聞いたこともなかったお花に出会います。

「ツル首」「長宗全かご」「綿摘みかご」今日は三種類のお花入れに、珍しいお花が入っていました。

お花入れの名前も、たくさんあります。
「花瓶」「花入れ」といった総称ではなくて、それぞれの名前がついています。

新しく覚えることも知ることもいっぱいあって、頭の体操です。

記憶の変容、記憶の忘却もありまして、覚も悪く師匠を手こずらせていますが、
そんな頼りないボケ丸出しの弟子を、師匠は面白がってくださいます。

言葉遣い、所作、一般常識・・・
知らないことや、勘違いしてきたことも、ひとつずつ覚え直し、修正していただいて、
理想とする日本女性を目指して精進をしているのです(笑)

コリント第2の手紙4:16を思いました。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

年齢と共に、記憶力も、持続力も低下していきますが、外面的な私自身が衰えていくのは、自然の理(ことわり)です。
でも、キリスト様に出会ってからの私は、日々、新たに生かされていることを毎日実感しています。

茶の湯のお稽古も、若かったあの時にやめていなければ・・・とも思いますが、
日々新たにされる「内なる私」になってからこそ、茶の湯の奥義を捕えることもできて、深い楽しみを味わえるのでしょうね。きっと。

それでは、おやすみなさい。
イエス様が共にいてくださいますことを感謝して。
マラナ・タ