ごきげんよう! さわこです。

2週間前のこと、
教団のパスファインダークラブ主催の全国キャンポリー大会への参加のために、
教会に集合したものの、交通機関がすべてストップ。

バケツをひっくりかえしたような雨が降り続き市内全域についに避難勧告が出された。
市内を流れる川は今にも氾濫しそうになっている。
結局、参加を取りやめるしかなくなったのだ。
その後も雨は降り止まず、翌週には台風までやってきてしまった。

ここまで、悪天候が徹底すると諦めもつくしかないかもしれないが、
数か月前から、楽しみにしていた子供たちはがっかりしてしまった。

今日の安息日、参加ができなくなった子どもたちとの分級であった。
5年のHちゃんと、6年のK君と、Mちゃん。
Mちゃんは大阪に住んでいて、夏休みに祖父母のうちに来ている。
大阪から東日本の方は、天候に恵まれていてキャンポリーを楽しむことができたのである。

今日の学びのテーマは「きかれた祈り、きかれなかった祈り」にした。

子どもたちに、キャンポリー参加に向けてどんなことをお祈りしてきたか尋ねた。

「よいお天気にしてください。風邪を引いたりしないように、健康を守ってください。キャンポリーではけがをしないように守ってください。友達と楽しめますように」

そんなお祈りを参加が決まった時から何か月も祈ってきたのだという。

「さて、Mちゃん、お祈りが聞かれたね。キャンポリーどうだった?」
「うん、楽しかったあ」
「参加できなかったお友達のことどう思う?」
「がっかりしたと思うけど、それも神様のご計画やったかもしれないし。行かない方がよいって、神様が思ったかもしれないし・・・」
となかなか深い答えが返ってきた。

「じゃあ、Hちゃん、お祈りしてきたのにねえ。どうだった?」
「うん、がっかりした。最初はめちゃめちゃ、がっかりした」

「Kくんは?」
「うん、ぼくも、超がっかりしたけれど、お祈りはきかれたよ。風邪をひきやすいので、ひかないようにって祈っていたことはきかれたよ」

するとHちゃんは
「あたしも!楽しめますようにってお祈りはきかれたよ!
教会で、ゲームをしたり、DVDをみたり、みんなと楽しく遊んだよ」

「じゃあ、キャンポリーに行けますようにって、お祈りはきかれなかったけれど、他のお祈りはきかれたのね」
「うん、お祈り、きかれたよ!」

Mちゃんは、祈った通りの結果をいただきました。
HちゃんとKくんは、願ったことはきかれなかったみたいだけれど、それでもお祈りが聞かれていたことを発見をしたのです。

「そうだよね・・・私たちのお祈りって、自分の思い通りにはきかれないことってあるよね」「うん」
「それじゃあ、お祈りって意味ないよ。お祈りすることないじゃんか、って思ったりしない?」

「そんなことなんて、思うわけないやんか。
お祈りって神様にお話しするんだよ。
自分の思いとおりになっても、ならなくっても、お祈りは楽しいんだよ」

と三人は口々に言います。

「ねえ、Mちゃん、今回みたいに祈った通りのことがきかれたら、神様ありがとうってうれしいよね。HちゃんやKくんみたいに、がっかりして、一瞬、心がぐちゃぐちゃになって、ええー、神様どうして―って思った後で、でも、実は聞かれていたお祈りを一つずつ、発見していく喜びは、Mちゃん味わえなかったね」
「うん」
「神様は、うまくいかない時にも、ちゃんと喜びを備えていてくださるのね。あなたたちのそうした考え方をね、信仰を働かせるって言うんだよ。」

お祈りはともすれば、「○○してください。○○を買ってくれますように」といった神様への注文をすることばかりになってしまうこともあるよね。

そんなお祈りもいけないわけじゃないけれど、いつまでもそんなお祈りばかりしていたら、信仰が赤ちゃんのままになるんだよ。

いつまでもおっぱい飲んで、ねんねのままでいたくないよね。成長していきたいよね。

だから、何をどう祈るかってことが大事なのよ。

ということを1か月くらい前から、分級で話してきていた。

そして「日々の祈り」という讃美歌を一緒に歌ってきた。

♪「日々の祈り、わたしの願いは、神を知ること、愛すること、主に従うことです」

この短い歌を子どもたちは気に入ってくれてすぐに覚えてくれた。

「神様に、私たちは何を願わなくちゃいけない?」
と尋ねたら、「神様を知ること!神様と人を愛すること!神様に従うこと!」
と、すぐさま返ってきた。

分級のお祈りの時、子どもたちは、ずっと前から、こんなことを祈ってくれていた。

「さわこ先生と、聖書の学びができて感謝します。神様のことをもっともっと知ることができますように」
「今日、さわこ先生から、神様のことについて○○のことを教えてもらってうれしかったです。○○のことがよくわかりました」

私の生徒たちは、いつも神様をもっと知りたいという思いをもっているのだ。

そして、うまくいかなかったときや、がっかりした時にも、信仰を働かせることを学んできているのだ。

私はそんな彼らが誇らしい。

去年の夏、彼らたちは自分からバプテスマを希望してきた。
そのとき時が満ちたとうれしかった。

私は、自分からバプテスマを勧めることはしない。
中学生になったら忙しくなるから小学生のうちに受けといた方がいいよ、とか。
○○ちゃんが受けるから、いっしょにどう?とか・・・そんな勧め方はしない。

そして秋にバプテスマを受けた。
彼らと私とは主にある兄弟姉妹なのである。

マラナ・タ
信仰の友である子どもたちを与えてくださってありがとうございます。
私は彼らを通して、神様のあわれみをたくさんいただいています。