ごきげんよう! さわこです。

 柳田邦男「言葉が立ち上がるとき」 

今年の二月のこと、新聞にこの本が新刊書として紹介されていたと一人の教会員がその切り抜きを私に見せてくれた。

「私は読書がしんどくなってしまったけれど、あなたならきっと読めるから、私に代わって読んで欲しい」と言う。

彼女の思いに応えようと、早速読んだ。柳田さんの本を読むのはこれで3冊目になる。
彼の本には、人間の心の奥深くから汲み出されるものが光っているのだ。

私が共感できたところを、手帳に書き込んでおいた。

その本はもう手元にはないので、何ページに書かれていたのかわからないし、そのまま書き写したものやら、私が理解した言葉で書き換えた部分があるものやら記憶は定かではないのだが。

以下がそれである。

「明日ガス室へ送られるかもしれないという限界状況に置かれたとき、自分の将来に期待をしても何もない。人生が何かいいことを用意してくれるなどという考えは無意味だ。今日という一日、今という一瞬一瞬を、精神性高く生きることによって人生に答えを提示するのだ」

このフランクルのメッセージを突き詰めてみれば、問うのではなく、答える、引き受けるということになる。
フランクルは苦悩こそ絶対的な意味があると喝破した。
苦難の真っ只中にあっても、精神をその渦流に巻き込まれない方法を発見していた。
現実の自分や状況を空から眺める俯瞰することをフランクルはできていた。

フランクルの言葉のように、血流の脈動する言葉は、ナチスドイツの強制収容所のような特異な状況下に置かれた人でなくても、さまざまな場所で、生と死の狭間で、苦難する人々の心に共感を持って受け入れられるのだ。

ただ、その前提として「読む」という行為が「心の習慣」になっているかどうかが、問われるだろう。

「読む」ことによって見出された言葉は「読む人」の魂を揺さぶり、新たな言葉を生み出す泉につながる水脈を豊かにする。

こうして「読む」ことによって蓄えられた言葉たちはやがて苦悩する「読む人」によって、今度は自分の言葉として泉から汲み上げられ、その言葉は「書く」という行為によって、客観化・普遍化される。そんな使命を担った人がいる。

そのようないのちを支える言葉の湧き出す源となる泉は危機的な状況に襲われた場には必ず見出されるのだ。


「読むこと」「書くこと」を愛して、それが日々の習慣となってしまった私には、柳田さんの書かれる意味がよくわかる。

涙が溢れてくるほどによくわかる。

心理学者の河合隼雄さんは偶然には、内的必然といって、意味ある偶然があると言っておられるというようなことも書かれていた。

私たちクリスチャンはそれを「神様のご計画」と呼ぶ。

以下、柳田さんが拾い集めた河合隼雄さんの珠玉の言葉である。

謙虚になること、それは自分も脆い存在であることを意識の根底に据えておくことを忘れないようにすることである。
私たちは創造主、贖い主の御前では、被造物に過ぎないこと、自分の分をわきまえるということ、そして、神様によって造られ命の息を吹き込まれた存在であるという感謝を忘れないことにつながっていく。
そうした意識をいつも持つことで神様は謙遜を与えてくださるのだ。
現代における心の病の多くは、関係性喪失の病であると
河合さんは言う。


神様との関係の喪失が人間関係にも響いてくるのだ。
神様との関係が健全でなく、機能不全に陥ってしまったなら、身近な人間関係も狂いを生じると私は思っている。

「言葉はいのちの営みの泉から沸々と湧き出てくる波動である」という美しい表現をみつけた。

以下は、ヨハネによる福音書1:1-4である。
「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神とともにあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

言とはイエス・キリストのことである。聖書のこの言葉を、河合さんだったか柳田さんだったか、どちらかはわからないのだが、こんなふうに美しい自分の言葉で置き換えて自分の魂に染み込ませておられるのだ。

私はお二人がキリスト者であるかどうかは存じ上げないのだが。

他にも大切に受け止めて記憶したい言葉を書き留めておく。

「常の中の異邦人」という心理状態
・ 闇の中でも志高く生きることはできる
・ いのちの精神性の上昇
・ 人間は物語を生きている存在である
・ 生と死にかかわる現代人の常識というものはあまりに科学主義に毒されている。科学が神になっている
・ 言語のレベル、身体感覚のレベルよりもさらに深いところにある回路でのコミュニケーションがある。魂レベル、霊レベルということである。



私はそれを信仰生活の中で日々体験している。
心はブラックボックスである。

私は、心は揺れるもの、心はコロコロ変わるのものと認識している。
心にはイエス様に住んでいただかなくては危険極まりないのである。
なんといっても心はブラックボックスなのであるから。
サタンがいつも盗もうとうかがっているのである。

「イエス様、私の心に来てください。イエス様、私の心をきれいにしてください。イエス様、いつも一緒にいてください」教会の私のクラスの子供達と安息日のたびに祈る祈りである。
                               2014年2月23日 記

ノートに挟まれたこの下書きを見つけた。パソコンの倉庫を捜したら、清書したものが保管してあった。

いろんなことを、思うたびに文章化してしまうのがわたしの癖である。
ブログ開設のおかげで、書き溜めた私の思考を、発信できるようになってうれしい。

マラナ・タ
あらゆる機会を与えてくださる主よ
あなたのくださるチャンスを無にすることのありませんように。
そのチャンスを、自己実現や自己表現といった、自我を喜ばせ、うぬぼらせて、鼻持ちならぬ私になってしまうことがありませんように。
あなたの与えくださるチャンスを、自らを省みるために、あなたへの信頼を強めるために、謙遜に生きる者となるために用いさせてください。