ごきげんよう! さわこです

朝祷会のメッセージより思ったことをまとめてみました。

当番の牧師を通してもらったみ言葉はヨハネ8:1-11である。
有名な姦通の女の話である。
イエスを試して、訴える口実を得ようと、律法学者やファリサイ派の人たちがやってきて
「姦通の現場で捕まえた女をあなたはどうなさるか」と聞くのである。

ユダヤの律法に従って「石打ちの刑にせよ」と言えば、ローマ帝国の法に勝る宣言をした反逆者となる。
「ゆるしてあげなさい」と言えば、無律法主義者、正義を持たないものとなりユダヤ社会での反逆者となる。
イエス様を訴える者が、イエス様にYesかNoかの選択を迫るピンチとなる場面である。

そこでイエス様が言われたことは「罪を犯したことのない者から、石を投げよ」であった。

イエス様は律法を否定なさらなかった。裁く側には不正があってはならない。イエス様はより積極的なさばきを提示された。そして年長者から順々にその場を去っていったのである。イエス様は、そこに集まった民衆を、自らを省みる力へと導かれた牧師のこの言葉は、私の中にすとんと落ちた。

もう一つ、斬新な切り口で私の思考の扉をノックした言葉が「思考停止」というキーワードである。

「被害者意識に立って、加害者意識を忘れてはならぬ。
加害者意識の領域に踏み込まないと思考停止状態になる。」
そういう危険性を語られた。

私の思考の中で「思考停止」というキーワードが動き始めた。


被害者は加害者であり、加害者は被害者である。
どちらか一方に色分けしてしまうことも、「思考停止」ではないか。

自由に、平和を訴えていると思いながらも「このように教えられてきた」「このように聞かされてきた」「○○主義」
こうしたものによって、培われてきた意識や思想が、私たちの中にはうごめいているのではないか。

そこもまたYes か Noの世界ではない。黒か白か、右か左かの世界でもない。

「真理は自由を得させる」ヨハネ8:32

このみ言葉が迫ってきた。
私たちが「真理」と信じているものの中身は、ある種の思想や主義によって構築されたものではないのか。
真理とは、イエス様ご自身である

イエス様抜きの真理は、人間の考える哲学である。人間の思想である。

私たちが正しいと思い込んでいること。思い込みとは「思考停止」である。

思考をイエス様におささげしなくてはならない。
思考する自分の魂をイエス様におゆだねしなくてはならない。

なぜなら、私たちの思考の多くは、古い自分に属している可能性が大きいからである。
イエス様の御霊によって、新しい自分に今日も変えていただかなくては、いつでも私たちは古い自分に足をすくわれるからである。

「思考停止」とは、神様の拒絶につながる。
自由を得させてくださるイエス様を不要とし、人間の都合にあわせて用いようとすることになる。
「思考停止」は私たちの無意識の領域に迫り、隠された罪をあぶりだす。
「自由」も「真理」も人間側のご都合主義に染められてしまう。

まとまりのつかない長い文章に最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。

マラナ・タ
主イエスよ、あなたの十字架と復活と再臨を信じる信仰を与えてくださったことを感謝します。主イエスを私たちのもとにお降しくださった父なる神の深い御愛に感謝します。
イエス様との交わりにいつも導いてくださる聖霊様、ありがとうございます。