ごきげんよう! さわこです

近年、小説をあまり読まなくなったのだが、敬愛するY姉さんに勧められてもらった本がこれである。セピア色に変色した定価240円の新潮文庫。

新渡戸稲造が5000円札になったころのこと。
彼のことをほとんど知らなかったことを恥じて「武士道」を読んだ。
いたく感動、感銘を覚えて日本という国、日本人であることに誇りを持つきっかけとなった。

その頃、明治になって多くの武士階級の人々が、キリスト者に回心し、明治時代のキリスト教を牽引していったことを知り、その人たちの本を片っ端から読んでいった。

杉本 鉞子の「武士の娘」を読んで、男性には武士道があるように、女性には婦道があることを知った。

彼女がキリスト教に回心したのも、婦道を叩き込まれて育ったからである。
「武士の娘」この本も絶対のお勧めである。

武士道と婦道には、キリスト教というか聖書の教え、価値観、思想に相通ずるものが確かにあるのだ。

さて、前置きが長くなったけれど、
山本周五郎の小説日本婦道記には魂の奥深くで感動した。
背筋が正されるようだった。

徳川時代の武家の妻たちを描いた短編集である。

書かれたのは昭和17年から20年。戦時中である。
山本周五郎は「日本女性の美しさは、夫にも気づかないところに非常に美しく表れる」ということを小説によって伝えたようとした。
しかし、不当な犠牲を甘んじて受けよと、日本女性の道を大上段に振りかざして書いたのではない。

どの物語にも夫の苦しみと共に苦しみ、不当な犠牲とみえるようなことにも心の目を開いて、相手の心を読み取ろうとする謙虚さがあるのである。

自己主張しない、自己に死ぬことによって、夫も自分も本当の命を生きる女性たち。
それこそ、キリストの心をもって生きていく女性なのだ。

この本の解説にこのような記述があった。

「先年物故された村岡花子さんは、初めて紹介された案内役の紳士と旅行にでた中年の婦人が、紳士の彼女に寄せているただならぬ感情を、携えていった『日本婦道記』を読みふけることで退けた挿話をつづり、この作品に《旧くして新しきもの、移り行く世代を通じて不変の民族の魂の脈打つ》のを感じ《一つの不動なるもの》を見出しています。村岡さんは『日本婦道記』が、一婦人にもたらした実効をあげ、さらなる不動なるもの、すなわち人間の普遍性を、まさしく受けとったのです」


そういうわけで、Y姉さんは、私にこの本をくださったのだと思いました。

わたしたち日本人にはキリストを受けいれる土壌がある。
武士道において、婦道において、備えられてきている。
迫害にもめげず、キリストの道を歩いた先人たちがいる。
その跡を、私たちも歩んでいる。

マラナ・タ
主イエスよ、あなたによって、日本という地に植えていただいたことに感謝します。
主イエス・キリストの恵みがともにありますように。