ごきげんよう! さわこです。

イザヤ6章より

ところで、セラフィム(み使い)の翼は何枚か知ってる?
12回目の通読で、新発見!

セラフィムの翼は二枚と思い込んでいました。
すごく大きい翼が二枚だって。

飛び交うセラフィム、翼は6つ
2つで顔を覆い、2つで足を覆い、2つで飛んでいた

とあるじゃないですか・・・

イザヤは神様のお姿を見て、セラフィムたちの讃美の歌を聞いて、自分の罪深さに気づいたのね。


神様のきよさの基準に自分が遠いところにいるって、事実を知ったのね。

イザヤの唇に、燃える炭火が触れたとき、イザヤは罪が赦されてたことを知ったのよ!
そして、あの有名な聖句!

「私がここにおります。私を遣わしてください」と言ったのですよ。

浄化されるためのプロセスは痛みを伴う。

私も生活の中で、また信仰生活の中で、痛みを感じることが幾度となくあった。
今も、痛みの中にいる。

その痛みが、神様に清めていただいている証拠だとしたら、
なんだか、うれしくならない?

苦しい時には、いつも「イエス様のお苦しみに与らせていただいているの、わたし」
って思っている。
苦しみの原因が、何であったとしてもね。ちょっと図々しいですよね。笑

この苦しみのプロセスは、神様の御手の中にある。
それを知っているだけで、どれほど慰めがあり、心を落ち着けることができるだろうか。

神様は大いに成功するよ!と言ったのではない。
神様はイザヤに、民はメッセージを聞いても学ぶことも悟ることもない、とお告げになった

可哀想なイザヤ!
あんまりだわ、神様。それって骨折り損のくたびれ儲けじゃないですかぁ。
聞かない、聞こうともしない民のところに行かせるなんて。
なぜ、神様はそんな過酷な役目を負わせたのかしら。

でも、イザヤだけではない。
預言者たちはほとんどそうだった。

イエス様もそうだった。

神様はイザヤに、でもね、少数の人はあなたのメッセージをきちんと聞くんだよ
と励まされた。

神様はご自分の民を、新しい木が、古い切り株から生えるために切り倒されるべき木にたとえた。

終わりの時には、人は健全な教えに耳を貸そうとはしなくなる。
自分に都合のよいことを言ってくれる話に耳を傾け求めるようになる。
真理から耳を背け、空想話に逸れていくようになる。
とテモテ第二4章には書いてある。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。テモテ第二4:2

パウロは聖霊によってこのように励ましている。
「はい!神様、わかりました!時が良くても悪くてもですね。しっかりやります!」
と返事をしてしまった通読デボーションでした。

マラナ・タ
主があなたの霊とともにおられますように。