30年前は新入社員!
懐かしくて…
30年前の今日は新入社員
1994年4月、大学卒業後、心躍らせて新社会人。学生時代のトレーナー活動を一旦終わらせて一般社会へ。
1994年4月、大学卒業後、心躍らせて新社会人。学生時代のトレーナー活動を一旦終わらせて一般社会へ。
会社は六本木一丁目。
社名は『全日本プロ・レスリング株式会社』。
社長は『馬場正平』ジャイアント馬場さんです。
100名の応募に対して、営業部3名、ジャイアントサービス(ファンクラブなど運営)2名の5名が採用されました。選手は別部門です。
私は営業部に配属されました。
私は営業部に配属されました。
営業部といっても、いきなり営業に出向く訳ではなく、主な仕事は購入者へのチケットの郵送。
所属していた1994~1995年はチケットが良く売れていて、後楽園ホールや日本武道館は毎回フルハウスでしたから。
所属していた1994~1995年はチケットが良く売れていて、後楽園ホールや日本武道館は毎回フルハウスでしたから。
当時のメインイベンターは、三沢光晴さん、川田利明さん、田上明さん、小橋建太さんの四天王。
当時はタバコの煙モクモクの営業部室内で、まずは黒電話でチケットの予約を取ります。そして現金書留で代金を送ってもらい、普通封筒に切手を貼って発送する、というのが仕事。
当時はタバコの煙モクモクの営業部室内で、まずは黒電話でチケットの予約を取ります。そして現金書留で代金を送ってもらい、普通封筒に切手を貼って発送する、というのが仕事。
やることが少なかったので、新入社員3人で電話の取り合い。鳴った瞬間に誰が取るか!?
また、「テレフォンサービス」という毎日の試合結果の音声吹込みも重要な仕事。試合数が多い時代ですから、3日に1回ほど夜の出勤がありました。
20時30分に六本木のオフィスに行って、仲田龍リングアナからの電話を待ちます。そこで口頭で試合結果を聞いて、メモ。それを留守電のようなレコーダーに吹き込みました。
20時30分に六本木のオフィスに行って、仲田龍リングアナからの電話を待ちます。そこで口頭で試合結果を聞いて、メモ。それを留守電のようなレコーダーに吹き込みました。
…第一試合、15分1本勝負、浅子覚vs井上雅央。7分32秒首固めで浅子覚の勝ち…
みたいに。
後年、このテレフォンサービスを聞いていたよ、という人に何人か出会い、嬉しい気持ちになりました。
まだまだ、希望に満ちあふれていた4月でしたが、徐々に社会の、会社の厳しさを知ることに。
後年、このテレフォンサービスを聞いていたよ、という人に何人か出会い、嬉しい気持ちになりました。
まだまだ、希望に満ちあふれていた4月でしたが、徐々に社会の、会社の厳しさを知ることに。
しかし、何年経っても、全日本プロレスで働けたという高揚感、緊張感は忘れられません。
30年後、パーソナルトレーナーとしてプロレス界と関りを続けられていることにも、「あの時の経験」が宝として残っているからだなあ、としみじみの4月。