【幕末維新ゆかりの地めぐり

 

姫路に勤王思想が盛り上がり

その中心人物が【河合惣兵衛】でした。

 

しかし・・・当時の姫路藩主である酒井忠績は

江戸幕府で大老の役職につくほど幕府側の人間であり

そんな幕府を否定する勤王派に対し厳しく弾圧をしていきます・・・・!

でもそれは仕方がない、当時は勤王派が天誅と称し

暗殺などテロリスト活動が横行していたわけで・・・・

そりゃ厳しくなるよねえ・・・・そんな時勢

河合惣兵衛も京都で公家の三条実美や

久坂玄瑞らと交流を深め、勤王の志に燃え上がります。

 

やがて姫路でも天誅と称し暗殺が多発する事態となり

後年、甲子の獄と呼ばれることになる

姫路藩主の命により勤王派の弾圧が始まり

河合惣兵衛の婿養子は斬首

その他の勤王派が牢屋にブチ込まれたりしました。

そして勤王派のリーダーと目されていた河合惣兵衛の切腹!

 

中央保健福祉サービスセンターの裏手にある

【善導寺】に河合惣兵衛の墓はあります。

 

この画像データを確認したら2015年に撮影してる・・・・。

 

7年ぐらい記事にしてなかったんか!?

小学校入学した子が中学生になっとる時間の流れや・・・。

まったく時の流れは早いものですね。

 

志半ばで散った【河合惣兵衛の墓】

 

姫路の勤王派が岡田以蔵と結託していた!?

 

さらに奥に行けば河合家の墓がありました。

でもこのお墓、河合寸翁の家系のお墓かもしれないですね。

 

【甲子の獄】とか知らんかったなあ

たまたまRUNしてたらお寺に立ち寄って、そこで案内板見つけて

そうかー姫路にも幕末志士たちの物語があったんやなって

そんな感動がありました。

 

善導寺から西へ

【船場本徳寺】までRUNしました。

 

 

 

ここには姫路の志士たちのお墓があります。

 

姫路の志士たちのお墓の前には

第一次世界大戦のドイツ兵の捕虜たちがつくった【望郷塚】があります。

なぜかってドイツ人捕虜が収容していたそうですが・・・・って

日露戦争もそうですけど収容所ではなくお寺なんていつでも逃げ出せそうな

そんな場所に日本は捕虜を配置しちゃうわけですね

なんでかっていうと国際社会で認められようと必死だったらしいよ。

愛媛県松山市なんて捕虜が温泉に行くとか自由度はかなり高かったみたい。

お寺の敷地内は自由が認められていたんだって!(驚)

 

【望郷塚】

でもなんで幕末志士のすぐ目の前に作ったんだろ???

 

西南戦争の碑もあります。

 

 

明治天皇も休憩場所として訪れられたそうです。

 

船場本徳寺から今度は東へ

船場川沿いにある公園には姫路の幕末志士の碑があります。

この場所で処刑されたそうです・・・・。

 

【姫路藩勤皇志士終焉之地】

 

 

河合惣兵衛と志士たち

姫路市民で知っている人はほとんどいないんじゃないかな

今回(といっても7年前やけど)の歴史ヒストリア

冊子や案内板やネットを調べてみると

河合惣兵衛の名前が【騒兵衛】とか微妙に違ってたり

これも知名度の低さゆえでしょうか?

さるるのこの記事も参考程度に、と思って下さいませ。

 

河合惣兵衛と姫路の志士たちは

明治を迎えると罪を許され名誉復帰されました。

時の権力者によってどうとでも変化するってことなんですね

そう思うと現代社会とそんなに変わらないのかも!?

 

 

【さるる史観満載の歴史ヒストリアはコチラ!】

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