【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】

 

【幕末維新ゆかりの地めぐり】

 

名将か愚将か

【乃木希典】

 

乃木希典は長州藩の支藩、長府藩の江戸屋敷で生まれました。

(生まれた場所は六本木ヒルズのあたり)

虚弱体質の子供だったそうでそれをなんとかしようと

両親に厳しく育てられ過ぎて(現在では児童虐待を通り越し、ただの暴行)左目を失明。

しかし乃木希典は母親の立場を慮って失明の理由は語りたがらなったそうです。

父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ長府(現・山口県下関市)へ引っ越し。

11歳になった乃木希典はそこで流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めましたが

やっぱり泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあったそうです。

 

そんな少年

乃木希典が成長していく町が長府なのです。

 

乃木希典が住んでいた場所は神社に

【乃木神社】

 

 

やがて萩藩の藩校・明倫館の文学寮に入寮

やがて幕府軍による第二次長州征伐が始まると召集され、奇兵隊に入隊!

山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功をあげる!

なんと・・・・乃木希典は【幕末維新ヒストリア】でもあったんですね~。(知らなんだ!)

第二長州征伐が実質、長州藩の勝利に終わると軍人にはならず

明倫館に復学、学者を目指しますがやはり紆余曲折を経て軍人に転進することになりました。

その後、士族の反乱である秋月の乱、西南戦争にも従軍し

負傷して病院送りになったけど脱走して部隊に復帰して指揮をとり続けたことから

「脱走将校」という異名がつきました。

 

うーん

やっぱりますます【幕末維新ヒストリア】や

 

蛇口をひねるタイプって珍しいね

 

軍人としてはドイツ帝国に留学などエリート街道

日清戦争では旅団長、中国大陸で転戦し因縁の旅順要塞も1日で陥落させ

日清戦争中にも旅団長から師団長に出世します。

日清戦争は日本の勝利に終わり、下関条約により、台湾は日本に割譲されたものの

台湾で独立運動が勃発、乃木希典は師団を率いて制圧に向かいました。

台湾が平定されると乃木希典は教育勅語の漢文訳を作成し

台湾人の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込み

日本人に対しては現地人の陵虐したり商取引の不正を厳しく戒め

台湾総督府の官吏についても厳正さを求めたことにより現在の台湾の基礎をつくりました。

台湾が親日なのはここらへんから始まります。

 

乃木希典が使用した井戸らしい

 

そして日露戦争が始まります。

日清戦争では乃木希典が1日で制圧した旅順要塞が帰趨を決める重要な攻略目標になり

ロシアもそれを承知しており当時、最強の要塞のひとつでした。

日本は戦死者約15,400名、戦傷者約44,000名という惨劇が発生し・・・・。

旅順要塞攻略の指揮官はさらに出世した乃木希典であり

この戦いが司馬遼太郎曰く、愚将と決定づけさせることになりました。

乃木希典は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで

攻略できると作戦を立案しましたが戦車も航空機もない時代

機関砲を配備した永久要塞に突撃するということは自殺行為に他ならぬ行為でした。

それでも何度も正面攻撃を繰り返し日本人が死んでいく

軍部や日本国民からも乃木希典に対する非難が高まり、軍部からも更迭する案も浮上したものの

明治天皇が御前会議において乃木希典の更迭に否定的な見解を示したことから

乃木の続投が決まってしまいます。

 

乃木希典の生家が再現されています。

 

 

児玉源太郎が指揮をしてから旅順要塞(203高地)は陥落した・・・・。

指揮権の変更・・・・それは実質のところ乃木希典の事実上の更迭ということなのですが

さるるの最初の知識、それは司馬遼太郎の小説からの知識であって

実際はそれを証明する資料はないそうです。

 

歴史小説は歴史小説として分けて考えることが肝要ですな。

それでも愚将という評価は当時の日本に蔓延していたそうですが、人格者であること

これだけは異論をはさむ余地はなさそうです。

 

旅順要塞陥落後、乃木希典は要塞司令官ステッセルと会見しましたが

ステッセルに対し敬意をもって紳士的に接し

従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず

ステッセルらロシア軍人の武人としての名誉を重んじたことで

こうした乃木希典の振る舞いは旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛され

敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら乃木希典を英雄的に描いた挿絵を掲載したり

子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や

乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発。(驚)

ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよび

イギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与されたるまでに至りました。

 

・・・・あれ?

やっぱり名将なんやん?

まあ歴史なんざ見る角度によってどうにでも変化するものだからね。

 

203高地の松

植林したんやろうか?

 

日露戦争後

あれほど旅順要塞戦で無策ともいえる作戦で犠牲を出し

非難囂囂だったにもかかわらずロシアに勝利したことで熱狂する国民は

乃木希典を歓迎する世論に移行していきます・・・・・。

SNSで叩いたり、持ち上げたりと日本人の国民性?人間の性?

どうしてもそこにリンクしてしまうよ。

日本人って基本、さるるを含めて軽率やと思うんよな。

 

それはさておき

乃木希典は日本へ帰国する直前、多数の将兵を戦死させた自責の念から

「戦死して骨となって帰国したい」「日本へ帰りたくない」

「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」

「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」などと側近に漏らし、帰国後は

各方面で催された歓迎会への招待もすべて断ったそうです。

 

宝物館もあります。

 

乃木さんと奥さんの静子さん

(お七という名前は東京では縁起が悪いから改名させたそうです。)

 

なんで改名させたかというと

岡山県:久米郡 【誕生寺~八百屋お七の物語~】

 

晩年に向けての乃木希典は

学習院の院長として就任し、「乃木式教育」と呼ばれる教育を実施。

そもそもこの人事は明治天皇の意思を汲んだものであり

昭和天皇が入学するのでその教育を乃木希典に託したかったからだそうです。

明治天皇からの信任厚く、旅順要塞戦の責任も明治天皇の配慮もあり

乃木希典はやがて明治天皇に【殉死】するまでに忠誠を誓うことになります。

(ちなみに昭和天皇は人格形成の大部分は乃木希典の影響を受けている、と語られたそうです。)

明治天皇の崩御、そして乃木希典の最後の日がやってきます。

 

自決(殉職)当日の乃木希典と妻(静子)

 

当時11歳の昭和天皇(裕仁親王)は

乃木希典の様子がいつもとは異なることに気付き

「院長(学習院)閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたとそうです。

漫画【昭和天皇物語】、興味のある方はご一読を。

右翼も左翼も関係ない、国民を想う天皇の誠意は尊いものだと感じられるのでは?

乃木希典の死を知った昭和天皇は涙を流して悲しまれたと伝わっています。

 

1912年(大正元年)9月13日午後7時40分

乃木希典、その妻・静子は自刃。

 

後年、中曽根康弘が運輸大臣だった頃

昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話は本当かと尋ねたところ

おおむねその通りであると答えられたという。

乃木希典の死後、日本各地に乃木神社が創建され、さるるが訪れた乃木神社も

そのうちのひとつとなります。

 

乃木希典と静子の銅像

彼女さんとぜひ、来たかった場所だったのでした。

 

当時、殉死を前時代的と批判する声もありました。

さるるも殉死を認めようとは思いませんが乃木希典が殉死すれば

妻も後を追うという・・・・善悪は別として強い絆がなければありえないことでしょう。

その絆に限定して、あやかりたいという気持ちもありました。

もちろん、さるるが死んだ後を追ってほしいなんて思わへんけどね。

 

ちなみに各地に神社が創設されるとともに

「新坂」は「乃木坂」へと改称され

 

乃木坂46へと

歴史は紡いでいくのでした。(たぶん)

 

いや~

今回の記事は4本分ぐらい熱が入ったわ!

っていくか【乃木坂46】って46人おるからじゃなくて?

【AKB48】は48人おるんやっけ?

もう10年以上前さ

新極真会広島支部の師範代(HKさん)にご指導をしてもらったことがある。

 

AK-47 カラシニコフ突撃銃

 

HKさん

「ええか、AK-47のAKはアーカーとロシア発音するんよ。」

 

さるる

「おす。」

 

HKさん

「AKB48はアーカーベー48、ということになる。」

 

さるる

「おす。」

 

 

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