【鎌倉殿の13人ゆかりの地めぐり】

 

一本松サービスエリアの後は

長島にある国立療養所【長島愛生園】に車を走らせました。

この長島、源平合戦ゆかりの地でもあります。

屋島の戦いの後に源義経の船が長島に吹き寄せられてしまい

武蔵坊弁慶が船を引き越したという伝説があります。

 

何気に弁慶の歴史ヒストリアもしています。

 武蔵坊弁慶ゆかりの地(目次)

 

・・・・って

さるるはその時代のこと、詳しくないんですよねぇ。

すてれんきょさんにお任せしてます♪


 

今回の岡山ドライブは特に確たる目標もなく

医療現場のストレスがちょっとでも漸減できればと出発したので

けっこう行き当たりばったりでした。

たしか一本松サービスエリアの観光案内に【長島愛生園】ってあったんです。

どういう場所かわからないけど、行ってみようかな~と

軽い気持ちで行ったんですが・・・・。

 

国立療養所【長島愛生園】

1927年、日本初の国立ハンセン病療養所である国立療養所長島愛生園が島内に設置されました。

長島のほとんどを大日本帝国政府が買収、島民居住者は居なくなり1930年に療養所が完成。

1938年には大阪府から公立らい療養所が長島に移転し、1941年に国に移管され

国立療養所邑久光明園となりました。この2つの療養所の施設として

病棟、患者・職員の住宅、作業場、慰安・娯楽施設、看護学校などが建設され

以前からの農耕地が患者の農園となりました。

施設のある長島で使用される水道水は本土の吉井川から水道管で送られ

本州から200メートルの距離にありながら、ハンセン病への差別・偏見によって隔絶された島でした。

岡山県道224号瀬西大寺線の工事により

全長185メートルの『邑久長島大橋(通称:人間回復の橋)』が、1988年に開通し

やっと本州と陸続きになりました。

 

【ハンセン病(らい病)】

そもそもハンセン病とは【らい菌】が原因の感染症で、身体の外見に変形・欠損が見られる場合があり

それが差別を生んだ原因のひとつと思われます。感染力は非常に弱く

普通の社会的接触での感染はほとんどなく、患者から医療関係者の感染は例がないそうです。

(しかしながら可能性の話をすれば0%ではないので可能性は否定できないですね。)

日本の新規患者数は年間で0〜1人に抑制され、現在では極めて稀な疾病といえそうです。

そういや手塚治虫の漫画で【きりひと賛歌】って漫画はハンセン病の話じゃなかたっけ?

さるるのが小学校の頃、道徳の時間では【ハンセン病】は【らい病】として教わった記憶がありますが、この表記は差別的意味合いが強いということで現在、【らい病】という呼称は一般的には使用されないそうです。

その道徳の時間ではハンセン病患者は療養所に連行される際、患者の後ろから消毒されながら電車に乗ったりして屈辱だったという内容だったんじゃないかな?

 

【差別】

身体の変形や欠損を伴う場合があるため

前世に悪いことをした人間が罹る病気と思われていました。(「天刑病」とも呼ばれてたんだって!)

また、《らい菌保有者》との継続的かつ高頻度に渡る濃厚な接触が原因であるという特徴があることから

幼児に対する性的虐待や近親相姦などを連想されるため誤解・偏見が助長された・・・・って

それはちょっと悪意を感じる連想やなぁ。

そして一番の差別の原因は日本政府が「らい予防法」を制定したからではないかな、と。

ハンセン病患者は強制収容され、人権を蹂躙され続けたのです。

中学生の頃、難病で岡山の病院に入院した同級生がいたんやけど、学校では

「らい病になったらしいで!」って噂されていたのを思い出しました。(同級生は白血病でしたが・・・・。)

当時から子供同士でも岡山県にはハンセン病の収容所があることは暗に認知されていたのでしょう。

無知のさるるは「らい病って顔が腐る怖い病気の収容所があるんや!」って戦慄していました。

断片的な情報しかしらんけど、なんだかよくわからないから怖い。

なんだかコロナ差別を連想しません?根源は一緒なんですよ、たぶん。

世のあらゆる差別もそう、無理解が差別を生むんだと思います。

ええことばっかり記事にして、さるるが聖人君子と誤解されたら嫌やから告白するけど

さるるは一時期、政治信条・人種に対して

強烈な差別主義者だった過去があることは認めておくよ。

 

長島愛生園の事務本部だった建物は歴史資料館になっています。

 

ここでハンセン病、長島愛生園の歴史を知ることが出来るそうです。

さるるたちが来訪時は休館日でしたが、機会があれば再訪したいと思います。

 

長島愛生園付属の看護学校

 

長島愛生園付属・・・・そうなんやね

このハンセン病で隔離された島には隔離・収容された患者が

現在も治療や生活されているんやね

簡易住宅も立ち並び、そこに患者さんたちが生活されています。

(その風景を撮るのは憚られたので画像は無し。)

 

隔離される根拠がなくなった現在も

何十年も療養所にいれば、故郷に戻れない人がほとんどなんやね

根強い差別、仕事もないし、蓄えもない

社会的ダメージが大き過ぎる。

 

納骨堂もありました。

全国から強制収容され、当時は孤島だった長島から出ることも許されず

亡くなられた患者の遺骨が納められています。

遺族が遺骨を引き取りに来ることは非常に稀だったそうです。

ハンセン病患者が身内にいると知られると差別・迫害を受けてしまうため

患者の家族ですら、その存在を消そうとしました。

あまりにも悲しい時代が、日本の暗部が存在していたということです。

 

島のあらゆるところに設置されたスピーカー

 

ラジオ?なにか聞こえてきます。

 

彼女さんは監視カメラと思っていたみたい。

さるるもそう思ったし、でもなんだか人の声(ラジオ)がかすかに聞こえてくるし

「怖い・・・帰ろ!(涙)」と彼女さんが言うてました。

さるるも背筋が寒くなった、そういう不気味さを感じたのですが

ハンセン病で失明した患者が交差点だとわかるように各所に設置されているそうです。

それを知ればなんのことはない、怖くないのですが

やはり知らないということは恐怖が増大するものだなぁ、と思いました。

 

収容桟橋

 

 

療養所に行くということは

家族・社会からの隔絶を意味しており

家族を差別から守るため

島では大半の患者が偽名を名乗ります。

患者は故郷を思い、涙したと案内板がありました・・・・。

どんな気持ちでこの桟橋を渡ったのだろう・・・・。

 

収容所

 

 

逃走防止のため現金は没収

島でのみ使用できるブリキの貨幣を渡されるとか

怖すぎる・・・・。

ほんまにここは日本やったんか!?

 

監房

 

規則違反をした患者はここに収監されました。

懲戒権は園長に与えられていたため、裁判を受けることなく懲罰が課せられます。

非人道的な懲罰もあり精神崩壊した患者や自殺者も多数いたとか。
戦後、日本国憲法は公布されてからもこの長島は治外法権であり続け

昭和28年【らい予防法】改正され、ようやく廃止になりました。

そんな昔ではない日本の話なんだな、と。

 

この監房を少し上がったところに

患者が住んでいた【目白寮】の跡があります。

 

この【目白寮】には

歌人・明石海人も収容されていました。

 

明治34年生まれ。

生家は経済的に恵まれており、沼津商業高校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進む。

やがて同僚の麻子と結婚、大正14年)には長女の瑞穂、続いて次女の和子が生まれる。

絵画、クラシック音楽を愛好し、赤いオートバイに乗ったり、テニスを楽しむ青年で生活は順調だったが

25歳でハンセン病を発症、教職を辞さざるを得なくなった。

治療のため入院していたこの時期、とある夫人と恋愛関係になり、一時期病院を出て

加古川付近で同棲していたことがあったが、家族の反対され1年後には同棲を解消し病院に戻る

病院に戻った時にはハンセン病の症状は悪化していて、かつての美少年の面影はなく頭髪はすっかりなくなり

顔面も張れあがっていたそうです。

同病院の閉鎖により、国立らい療養所長島愛生園 (岡山県) に入所。

その前年には癩予防法 が成立しておりハンセン病患者の強制隔離政策が始まっています。

明石海人は入所後、精神錯乱を起こし、当時を知る人は

明石海人が半年以上もほとんど狂人の状態にあったと語り

精神錯乱前の海人は社交家で如才なく、遠慮深かったが

錯乱から回復後は気難しく無口になり、無遠慮になったという証言もありますが

海人を知る身近な人間は、海人が気難しい変人だったというのは誤った伝聞であるという説がある。

昭和10年、ハンセン病が進行し失明

昭和11年には気管切開手術を受けて声を失う。

それ以後は、指で文字を書いて指示して他人に代筆してもらいながらの創作活動を続け

昭和14年、結核のために亡くなりました。

 

監房にあざけりわらふもの狂い
夜深く醒めてその声を聴く

 

明石海人の残した句から

この長島での生活がいかほどのものだったか

その一端を伺い知ることができます。

 


なんだか日本行政の暗部を知って

複雑な気持ちではありましたが小豆島のエンジェルロードみたいな場所がありました。

天気も良かったし、いい気分転換になりました。

 

後日談

 

彼女さんが長島愛生園付属看護学校の特集番組の

YouTube映像を見せてくれました。

この日の長島愛生園のこと、どこか心に引っかかってくれたのかなぁと

そういう気持ちになりました。

 

さらに後日談

 

岡山には笠岡ラーメンなるものがあるらしいし

今度連れて行ってあげようとしたのですが、それはまた

別の記事にしようと思います。

 

 

(おしまい)