【幕末維新ゆかりの地】
幕末維新の重要人物が軒並み在籍した
【長崎海軍伝習所】、さるるでいうところの歴史ヒストリアでは絶対に外せない
さるるにとってそういう場所でした。
長崎海軍伝習所のあった場所は現・長崎県庁で
その記念碑が建っているらしい。
長崎県庁は取り壊されていました。(悲報)
おいおいおいおいおい
さるるが長崎を訪れるなんざ実に25年ぶり以上だよ?
そんな時に限って長崎県庁が解体されてるんかい
いや長崎県庁自体には興味ないんや、その敷地にあった記念碑は?
フェンスに遮られて何も見えへんやないかい!
海沿いにあるから「ここから英雄たちが海を眺めていたんや~。」
とか、歴史浪漫に浸らせてくれよ!(涙)
こんなんやったらしい。
【長崎海軍伝習所】
江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。
幕臣や雄藩藩士から選抜して
オランダ軍人を教師に蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせました。
築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年に閉鎖されるまで
日本の最先端医療を学べる場であり、近代軍事学校として機能しました。
併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となって日本造船界を牽引します。
さるる的に司馬遼太郎のベスト3に入る名作
【胡蝶の夢】
これは日本近代医学に貢献した人物の大河ロマンであります。
幕末維新と医療が密接に関係するという新たな視点を授けて頂いた歴史小説で
【花神】も併せて読むと興奮は必至、前立腺が無駄に肥大しちゃうで?(嘘)
んで、長崎海軍伝習所の話に戻るけど
幕府海軍の養成が目的なので軍艦の操縦だけでなく造船や医学、語学など様々な教育が行われました。
例えば、【胡蝶の夢】にも出てくる重要人物ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は
物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学のあけぼのとなります。
併設されていた長崎養生所・長崎英語伝習所は、後の長崎大学の基となりました。
有名どころではこの2人も長崎海軍伝習所で学びました。
松本良順も在籍していました。
【胡蝶の夢】では主人公司馬凌海を何かと面倒をみてあげるんやけど
面倒見がいいというだけのオッちゃんではなく
新選組に心酔して周囲の反対を押し切って従軍してしまうという
けっこうな武闘派。
・嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元で助手をする。
・嘉永2年(1849年)、松本良甫の養子となる。
・安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。
・文久2年(1862年)閏8月8日、奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる。
・文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる。
医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵の適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
・元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。同年6月1日、奥医師の任を解かれ、寄合医師となる。
同年8月15日、奥医師に再任される。将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。
・京都で活動していた新選組の局長近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。
・慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた徳川家茂の治療に努めた。
・慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となる。
会津戦争後、仙台にて降伏。戦後一時は投獄されるが、明治2年1869年赦免される。
・明治23年(1890年)9月29日 貴族院議員に勅選される。
・明治35年(1902年)4月1日 退役
・明治40年(1907年)3月12日 大磯の邸宅において心臓病のため死去。
この征露丸のおっちゃん
気にならへんかった?これが松本良順なんやってさ!
ん?
【正露丸】じゃなくて【征露丸】?
そこに気づいたアナタはするどいですな!
正露丸と征露丸
なんと2種類が存在するのです!
その理由は・・・・まあ長くなるからいつかの機会にネ!
長崎海軍伝習所跡・・・・こっそり盗撮
でもまあ
ここまで記事を膨らませることができたから
さるる的には満足しているよ
相棒からしたらわざわざタクシーに乗って、何もないフェンスをウロウロしてるし
なんの興味も湧かなかったやろうねぇ。
(*'ω'*)going my way
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