【幕末維新ゆかりの地めぐり】

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大村益次郎、楠本イネ、楠本高子の軌跡を巡る
愛媛の旅(2018年)も今回が最終回を迎えることになりました。
歴史の偉人で近年、強く興味を持ったのが秋山真之、秋山好古、正岡子規
そして大村益次郎、楠本イネ、楠本高子ですが全員が
愛媛県にゆかりがあるということで2017年、2018年、2019年と訪れています。
2019年の記事はアメブロに移行してからにしようと思います。
Yahoo!ブログ終了までに愛媛の旅(2018年)は終わらしておこうと思っていたので
長編になりましたが終了してホッとしております(*'ω'*)ほっ♪


【2018年愛媛の旅の軌跡】
オランダおいねを訪ねて 
広島県:尾道市 【因島水軍城】 
愛媛県:今治市 【今治城と今治ラーメン】    
愛媛県:松山市 【松山城】


明治政府を勝利に導いた天才司令官であり
日本の近代軍隊を創設した大村益次郎
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シーボルトの娘である日本初の産科医
楠本イネ
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その娘の楠本高子
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この3人が暮らした伊予宇和島藩
旅の最後の歴史ヒストリアがついに始まります。
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大村益次郎と楠本イネ(オランダおいね)って
家が近所だったんですねえ
楠本イネは大村益次郎の家にオランダ語を学びに通いますが
2人の蜜月の時間・・・・でもなかったようです。
大村益次郎にはヒステリーの妻がいたこともあるでしょうが
大村益次郎自身、容姿に強いコンプレックスがあったようです。
(画像でもオデコがすごく出てるでしょ?)
大村益次郎の天才を知れば知るほど、その大きく突き出したオデコって
常人より脳が発達していたのではないかと推測したくなります。


漫画でもこんな感じで描かれています。
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官軍の最高司令官であり
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本業はお医者さんでした。
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大村益次郎の住居跡・・・・車でなかなか見つけられず
番地がわからんからナビも使えないからランドマークである法円寺
川沿いの橋を頼りに狭い生活道路をウロウロ・・・・
対向車が来るし、車を置けそうなところもないし近所の人に聞いても
「大村益次郎の住んでいた場所?」ってな感じで・・・・・


みつけたよ
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伊予宇和島藩で2年半をここで過ごしたそうです。
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そして川沿いに地図を頼りに
楠本イネの住居跡をやっとこさ発見です。
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岡山で、長崎で、ここ宇和島で
師匠と弟子という関係だった大村益次郎と楠本イネ。
大村益次郎は官軍の最高司令官となり、楠本イネとは離れ離れになります。
司馬遼太郎の【花神】では楠本イネを受け入れようとしない
大村益次郎に対して楠本イネは拗ねてみせたり愛を告白したり【女】として接しますが
大村益次郎はあくまで楠本イネを【弟子】として定義し
己の感情を押し殺して楠本イネを想い続けることになるのですが・・・・・
この2人の不器用な愛はついに成就されることはありませんでした。

倒幕を達成し
明治の時代が始まります。

大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導していく一方で
西郷隆盛の反乱(西南戦争)を予感し、そのための準備も着々と進めます。
大村益次郎は西郷隆盛を評価しなかった珍しい維新側の人間で
たびたび西郷隆盛の面目を潰すような発言をします。
西郷隆盛はそれに怒ったりせず、大村益次郎が正しいと認めていましたが
西郷隆盛に心酔する薩摩藩士からは憎まれてしまいました。

明治2年9月4日、益次郎は会食中に
元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われ重傷を負った。
その時の傷は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負い
右膝の傷が動脈から骨に達するほどの重症であり
数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。
9月20日ボードウィン緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。
10月1日、益次郎は河東操練所生徒寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後
10月2日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。

暗殺未遂事件を知った
楠本イネ
やその娘の楠本高子が(たしか横須賀?横浜?)から駆けつけますが
これが大村益次郎と楠本イネの最後に過ごした時間になりました。
2人の看護を受けるが病状は好転せず

オランダの医者ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けるも
「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように
手遅れとなり敗血症による高熱を発して死亡。(享年46歳)


楠本イネの住居跡に建っている民家に埋め込まれてた。
土地が三角やから三角屋敷っていうんやろか?
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そして楠本イネは・・・・

異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で
東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され
明治天皇女官葉室光子の出産に立ち会うなど医学技術は高く評価されました。
明治8年に医術開業試験制度が始まるが
女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため
東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷します。
明治17年、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるも
既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、以後は産婆として開業することになります。
62歳の時、娘楠本高子の一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し
再上京、医者を完全に廃業、以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送りました。
明治36年、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒のため
東京の麻布で死去します。(享年77歳)

そして娘の高子は・・・・

片桐重明に強姦され、生まれた男児(後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)を育てるため
医業の道は断念せざるをえなかった失意の高子でしたが
その後にかねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚。
(ってか強姦して結婚するとか時代なんかな?イネも高子も悲劇の人やと思う。)
山脇との間に一男ニ女を授かるが、結婚7年目に山脇は病死。
その後は叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話を受け
東京で母のイネと共に暮らしました。
以後は幼少時に熱心だった芸事の先生をして生計を立てたそうです。


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