【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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日本の幕末・維新は蒸気船から始まった
そういっても過言ではありますまい?
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帆船しかなかった日本
大型船の建造を禁じていた幕府にとって蒸気船
動力を搭載して大陸間を行き来する大砲、兵士を搭載した蒸気船は
まさに動く海上要塞であり日本人のド肝を抜きました。
薩摩藩も伊予宇和島藩も佐賀藩みたいな先進的な藩は
「俺らも蒸気船つくろうぜ?大砲もつくろうぜ?」ってなるんですが
基礎工業力がケタ違うわけで・・・・
それでも勤勉さだけが取り柄の日本人?わずかな情報をもとに
アームストロング砲をつくっちゃうし
でも蒸気船はそもそもエンジンを一から設計しなきゃいけないわけで
これは当時の日本の科学技術では不可能!
(・・・・・と思われたけど)

薩摩藩と伊予宇和島藩は
それを造っちゃうわけで・・・・・。

司馬遼太郎曰く
当時の科学技術で蒸気船を製造するのは
下町で人工衛星をつくるのに値する、とのことでした。
それぐらいのことだったんですねぇ。


西江寺(せいごうじ)
ここに蒸気船をつくった男の墓があります。
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【前原巧山】
純国産の蒸気船を製造したスゴイ人。
前原巧山、なんて立派な名前だけどそれは偉くなってからの話で
嘉蔵(かぞう)と呼ばれていて
提灯の紙を張りかえる職人で、それだけでは収入が低くて生活ができないので
人々に頼まれては、どぶ板直しから雨漏り修繕・小間物細工で生計を立てているうちに
伊達政城が「蒸気船つくりたいから誰か技術者おらん?」ってなって
家臣が「そういえば器用な男が町にいますよ。」っていう流れで嘉蔵が抜擢されました。
っていうかスゴイよねえ・・・・提灯の紙を張り替える職人やで?
なんせ器用らしい、っていう噂だけで蒸気船を造れってお殿様に命令されて
最初は断ったそうだけど、断れなんだそうです。


西江寺はお墓がいっぱいあって
嘉蔵、前原巧山のお墓はまず見つけられません。
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さるるは住職さんにお願いして連れて行ってもらいました。
本当に控えめな、一般のお墓の中にあったからよう見つけられなんだ。
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前原巧山(嘉蔵)は無学で字が読める程度。
手先が器用らしい、っていう理由で当時世界の最先端技術である
蒸気船を造れといわれ長崎に出向させられるわけです。
もちろん町人ですから身分は低く
長崎では不当な扱いを受けまくり、研究で時間に遅れると食事をもらえなかったり
その待遇はあまりにひどいものだったそうです。
大村益次郎は伊予宇和島藩の蒸気船製造にも関わっており
この前原巧山(嘉蔵)の待遇改善を藩に求めたほどでした。
ちなみに長崎で前原巧山(嘉蔵)は楠本イネと出会ったことが記録されています。
楠本イネは長崎でも大村益次郎のそばにいたのかな?

前原巧山(嘉蔵)
すごい人なんだよね・・・・ゲベール銃を製造したり
ミシンの製造したりもしたんですけどね
パンの製造には失敗するというお茶目なところがあります。
大村益次郎とともに頑張った前原巧山(嘉蔵)
蒸気船の製造に成功したのでチョッピリ出世させてもらえたそうです。
お墓の小ささからそうだったのかな、と思ったりしました。
もっと立派なのを想像してたから・・・・。


宇和島といえば闘牛らしい!
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定期闘牛大会意外だとメチャ高いやん!
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バキの地下闘技場を思い出したよ
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高知県の桂浜では闘犬を見たことあるけど
なんか可哀そうで見ていられなかったんやけど、闘牛はどうなんやろ?
(ちなみに闘犬は高知県では無くなったそうですが)
闘犬にしろ闘牛にしろ、文化だから残酷と否定する気はないんやけど
ちょっと時代にそぐわない気がしたさるるなのでした。

というわけで
次回、【愛媛県松山市→宇和島市の旅】は最終回
大村益次郎と楠本イネの愛の軌跡を辿ります。