【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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官軍を連戦連勝に導いた大村益次郎
残された文献、その実績とまさに天才という以外の形容が見当たらず
日本帝国陸軍の礎を築いた人物です。
しかしながら同じ官軍側の人間に恨まれ暗殺されてしまうことで
権勢欲だけは一流、軍人としては三流の山縣有朋が
藩閥で偉いさんになることで日本陸軍に太平洋戦争にまで及ぶ
悪習を伝播させてしまうことになるのですが・・・・。

でもどうだろう
大村益次郎は天才軍略家だったかもしれないけど
人間関係に配慮に乏しく
現代のいうところの自閉症的な傾向があったような気がします。
もちろんこれは【さるる史観】ですのであしからず。


【西郷どん】ではチョイ役でしたけどね
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その大村益次郎の人間関係の配慮のなさが
合理的過ぎる思考が様々な場面で軋轢を生んでいくわけです。
西郷隆盛にすら意見し・・・・意見は正しくとも
権威である西郷隆盛の面目を叩き潰すように方針を否定してしまう。
西郷に心酔するシンパからすれば憎悪の対象となり
最終的にはそのことが原因で暗殺されてしまうのですから、やはり
仕事の能力も大事ですが人間関係構築能力というのは
いかなる場面、時代であっても大事かと。

シーボルトの娘、楠本イネとの悲恋も
その性格が大いに関係している・・・・と考えてみるのも
歴史ヒストリアとしては興味深い。


大河ドラマにもなっている大村益次郎
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靖国神社では大きな銅像が
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大村益次郎に面目を潰された西郷隆盛は
「そのご意見はごもっとも」と身を日当たりがやはり大物な気がします。
やはり幕末維新を通じて人徳という意味では
西郷隆盛と比類しそうなのは坂本龍馬ぐらいのものでしょうか。
ちなみに西郷隆盛は大村益次郎の戦略・戦術を信頼してはいましたが
大村益次郎は官軍の中において西郷隆盛を評価していないと公言しており
幕府討幕後の次の敵は西郷隆盛だと西南戦争を予言しています。


若き日の大村益次郎が2年半を過ごした愛媛県宇和島市
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大村益次郎は身分の低い村医者でしたが
大阪の適塾で塾頭を務めたほどの高い実力を評価され

伊達宗城の招きによって来藩し
宇和島藩士の客分として蘭学の教授、兵書、翻訳を行うと同時に
藩の軍制、特に軍艦の研究もしました。
大村益次郎って学者であり医者であって軍人ではなかったわけです。
まさにマルチな才能・・・・・というか幕末になると
西欧の知識を多く知っているものが有利で、自然それは蘭学者である場合が多かったのです。
ですから幕末に活躍した人物には適塾出身者が多いです。

長州藩でしがない村医者をしていた大村益次郎を
伊予宇和島藩の重要なポストに引き抜いた先進性は当時としては珍しく
桂小五郎は大村益次郎を長州藩に取り戻そうと奔走し
最終的には官軍の最高司令官として登用することになりましたが
長州藩でさえ身分の低い大村益次郎を軽んじる傾向があり
伊予宇和島藩から引き抜こうとしたのに条件は下っ端クラスだったそうです。
それでもそれに応じたのは大村益次郎の長州愛、とのことですが・・・・
実際、伊予宇和島藩は大村益次郎を手放したくないわけで
「長州藩の仕事も伊予宇和島藩の仕事も並行してやってくれたらええから!」
・・・・・というお願いを大村益次郎にしています。


伊予宇和島の名物、鯛めし
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道の駅みたいなところで立ち寄って
その土地の名物を食べてみるのも旅の楽しみであります。
ちょっと運転時間も長かったからここで休憩・・・・。
ちょっと周辺を散歩してみました。


すぐそばに【えひめ丸事故】の慰霊碑がありました。
(画像の奥に伊予宇和島水産高校が見えます。)
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えひめ丸事故】
ハワイのオアフ島沖で愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船だったえひめ丸
浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルが衝突し沈没させた事故。
乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人と生徒4人が死亡し
救出されたうち9人がPTSDと診断された。
の事故の際、浮上以前からソナーでえひめ丸の存在に気付いてはいたが
グリーンビルは民間人16名を乗せており、クルー等はこの民間人の対応に追われて
ソナーによる確認作業が疎かになった、またそれ以外のいくつかのミスが事故の原因といわれています。
ちなみに当時の森喜朗首相は事故発生時に休暇を取りゴルフをプレーしていて
事故の一報を聞いた後もそのままゴルフを続行、大きな問題となり
森首相は内閣総理大臣を辞任したという出来事がありました。←ほんまクズやな?

そうか・・・ここから出発したんやな
亡くなった船員さん、学生さんにしばらく黙祷・・・・。


宇和島市立歴史資料館へ
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宇和島市には松山海軍航空隊の分遣隊が駐屯していました。
(紫電改の第三四三海軍航空隊とは別)
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予科練、ってことは練習生やね
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酸素魚雷の実物を見れるとは・・・・!
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酸素魚雷】
酸素魚雷は燃料の酸化剤として空気の代わりに
空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた魚雷。
第二次世界大戦中、唯一実用化、運用されたのは大日本帝国海軍のみ。
酸素魚雷は速度と炸薬量(攻撃力)で優り、射程は数倍!
しかも航跡の視認が困難で反撃されにくいという当時からすれば反則の未来兵器?
連合軍は1943年に鹵獲するまで魚雷の性能を知ることができず
開戦当初には魚雷戦になるとフルボッコされてました。

んで
やっと大村益次郎ゆかりの地へ向かいます。
宇和島市立資料館のすぐ横隣にある樺崎砲台へ・・・・。
職員の方にお声をかけると中に入ることができます。


伊予宇和島藩の命令で大村益次郎は樺崎砲台築きました。
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資料館が見えます。
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ウロウロしました。
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外国船の脅威に備えた砲台ですが
大村益次郎はこんあんものではどうにもならないことは承知しており
お金もかかるし、技術もないし、でもお上が作れというのなら
体裁だけ整えればよろしい、砲台に見える釣鐘とか置いておけばいい、なんて
他藩にアドバイスしたという記録があります。

四国の宇和島市に外国船が来るかどうか
地政学的、政治的にちょっと疑問なんですけどね。
やはり備えをしなきゃならないわけで
当時の大名たちはなんせ
黒船来航に度肝を抜かれたのですなあ・・・・。


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黒田官兵衛ゆかりの地 (目次)