【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/f0/dd/j/o0500062214546483956.jpg?caw=800)
去年の愛媛県旅行をまだ引きずっております。
今年の愛媛県旅行はアメブロ移行後になりますなぁ・・・・と思いつつ
今回の【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】のターゲットは
正岡子規
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/2e/c1/j/o0424060014546483961.jpg?caw=800)
【正岡子規】
正岡 子規は俳人、歌人、国語学研究家。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人。
死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていました。
香川照之が好演しましたね。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/7a/72/j/o0327040014546483964.jpg?caw=800)
【坂の上の雲】という小説は
秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人が生きた明治の物語です。
同じ松山で育った3人はそれぞれの人生を昇華し
それぞれが日本の歴史に名を刻む、影響を与えた人物となりました。
史実、彼らは友情で結ばれていました。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/17/1c/j/o0720042614546483968.jpg?caw=800)
ん~でも厳密には秋山好古(真之のお兄ちゃん)には
友情というか・・・・・悪友である真之が唯一頭の上がらない存在だったし
友情というより畏敬の念だったかもしれませんね。
秋山兄弟が軍事で名を馳せ、正岡子規は文学で新風を起こします。
さるるは無学なもんで俳句、短歌といったものに造詣が浅く
ってかまったく興味がないんだけれどさ
正岡子規という人間は非常に面白い人間だったそうで、人間性には興味がある。
道後温泉の近くにある正岡子規の像
野球してる格好をしてるよ
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/0a/89/j/o0555041714546483971.jpg?caw=800)
正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手で
明治22年に喀血してやめるまで続けていた。(ポジションは捕手)
「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」など
外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(遊撃手)」という
翻訳案を創作して提示したことで
日本の野球を広めた第一人者という一面もあります。
余談ながら
東京台東区、上野公園に正岡子規が野球を楽しんだグラウンドが
【正岡子規記念球場】として存在しています。
さるるはここで、こうパパさんに命じられて空手の型をした気がする。
すげーヘタクソだった・・・・って、それは今もか♪
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/a2/d7/j/o0800060014546483974.jpg?caw=800)
さらに余談
さるるが機嫌が頗る良い時に屋外で
「ベースボールするぞな!」って言うてるのはアレね
坂の上の雲の正岡子規のマネなん。
正宗寺の中にある【子規堂】
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/af/f1/j/o0555041714546483977.jpg?caw=800)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/ba/c9/j/o0555041714546483980.jpg?caw=800)
正岡子規の文学仲間で
正岡家の菩提寺である正宗寺の住職であった仏海禅師が
子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内に復元した文学資料館。
子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もあります。
正岡子規の生家を再現した【子規堂】
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/77/b5/j/o0555041714546483983.jpg?caw=800)
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/52/6c/j/o0555041714546483989.jpg?caw=800)
正岡子規は東大予備門(東京大学)に秋山真之と共に進学し
夏目漱石と正岡子規は仲が良くって、夏目漱石は松山市内で教師として赴任し
そこでの経験をもとに名作【坊っちゃん】を書き上げることになりますが
物語の舞台は松山市、道後温泉などが登場します。
館内は撮影自由!
貴重な【ホトトギス】の関連資料も!
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/ff/5f/j/o0555041714546483992.jpg?caw=800)
ホトトギス社が発行する俳句雑誌。
1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。
明治期には総合文芸誌として
大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇りました。
正岡子規の使用した机
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/f9/0c/j/o0555041714546484000.jpg?caw=800)
大学中退した正岡子規は、叔父・加藤拓川の紹介で新聞『日本』の記者となり
家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。
明治26年に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し俳句の革新運動を開始した。
明治27年の夏に日清戦争が勃発すると明治28年4月、近衛師団つきの従軍記者として
同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。
その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから
「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ
ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号にしました。
正岡子規の妹「りつ」(菅野美穂)が
真之を幼名で「じゅんさん!」って呼ぶとさるるのテンションが上がった♪
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/e8/ed/j/o0315026514546484003.jpg?caw=800)
貴重な資料がずらり
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/6f/d6/j/o0555041714546484009.jpg?caw=800)
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/c6/f1/j/o0555041714546484013.jpg?caw=800)
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/e5/71/j/o0555041714546484018.jpg?caw=800)
子供の頃の正岡子規
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/51/0d/j/o0555041714546484021.jpg?caw=800)
正岡子規は喀血した自身をホトトギスになぞらえたように
子規の文学はその病と切っても切り離せないものだったそうです。
母の八重の回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。
体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたそうです。
大喀血があり医師の診断は「肺結核」と診断。
当時の結核は不治の病であり、、正岡子規は死を意識して生きていくようになります。
子規の遺髪塔(たぶん)
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/f6/57/j/o0555041714546484025.jpg?caw=800)
正岡家代々の墓(たぶん)
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/11/1b/j/o0555041714546484031.jpg?caw=800)
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/6d/bf/j/o0555041714546484036.jpg?caw=800)
正岡子規の病を大きく進行させたのは
日清戦争への記者としての従軍で、帰国途上の船中で大喀血して重態となり
そのまま神戸で入院、須磨で保養した後松山に帰郷し
当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。
この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり
床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず
やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが明治32年夏頃以後は
座ることさえ困難となり、この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで
寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、
碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作り
子規はそれを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも伝わっています。
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/02/sawada0906/64/0b/j/o0555041714546484039.jpg?caw=800)
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黒田官兵衛ゆかりの地 (目次)
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