【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】
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去年の愛媛県旅行をまだ引きずっております。
今年の愛媛県旅行はアメブロ移行後になりますなぁ・・・・と思いつつ
今回の【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】のターゲットは


正岡子規
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【正岡子規】
正岡 子規は俳人、歌人、国語学研究家。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い
日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人。
死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていました。


香川照之が好演しましたね。
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【坂の上の雲】という小説は
秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人が生きた明治の物語です。
同じ松山で育った3人はそれぞれの人生を昇華し
それぞれが日本の歴史に名を刻む、影響を与えた人物となりました。



史実、彼らは友情で結ばれていました。
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ん~でも厳密には秋山好古(真之のお兄ちゃん)には
友情というか・・・・・悪友である真之が唯一頭の上がらない存在だったし
友情というより畏敬の念だったかもしれませんね。
秋山兄弟が軍事で名を馳せ、正岡子規は文学で新風を起こします。
さるるは無学なもんで俳句、短歌といったものに造詣が浅く
ってかまったく興味がないんだけれどさ
正岡子規という人間は非常に面白い人間だったそうで、人間性には興味がある。


道後温泉の近くにある正岡子規の像
野球してる格好をしてるよ
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正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手で
明治22年に喀血してやめるまで続けていた。(ポジションは捕手)
「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」など
外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(遊撃手)」という
翻訳案を創作して提示したことで
日本の野球を広めた第一人者という一面もあります。

余談ながら
東京台東区、上野公園に正岡子規が野球を楽しんだグラウンドが
【正岡子規記念球場】として存在しています。
さるるはここで、こうパパさんに命じられて空手の型をした気がする。
すげーヘタクソだった・・・・って、それは今もか♪


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さらに余談
さるるが機嫌が頗る良い時に屋外で
「ベースボールするぞな!」って言うてるのはアレね
坂の上の雲の正岡子規のマネなん。


正宗寺の中にある【子規堂】
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正岡子規の文学仲間で
正岡家の菩提寺である正宗寺の住職であった仏海禅師が
子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内に復元した文学資料館。
子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もあります。


正岡子規の生家を再現した【子規堂】
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正岡子規は東大予備門(東京大学)に秋山真之と共に進学し
その同窓生には夏目漱石南方熊楠がいます。
夏目漱石と正岡子規は仲が良くって、夏目漱石は松山市内で教師として赴任し
そこでの経験をもとに名作【坊っちゃん】を書き上げることになりますが
物語の舞台は松山市、道後温泉などが登場します。


館内は撮影自由!
貴重な【ホトトギス】の関連資料も!
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ホトトギス社が発行する俳句雑誌。
1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した。
夏目漱石が小説吾輩は猫である』、『坊っちゃん』を発表したことでも知られ
明治期には総合文芸誌として
大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇りました。


正岡子規の使用した机
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大学中退した正岡子規は、叔父・加藤拓川の紹介で新聞『日本』の記者となり
家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。
明治26年に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し俳句の革新運動を開始した。
明治27年の夏に日清戦争が勃発すると明治28年4月、近衛師団つきの従軍記者として
遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため
同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。
その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから
「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ
ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号にしました。


正岡子規の妹「りつ」(菅野美穂)が
真之を幼名で「じゅんさん!」って呼ぶとさるるのテンションが上がった♪
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貴重な資料がずらり
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子供の頃の正岡子規
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正岡子規は喀血した自身をホトトギスになぞらえたように
子規の文学はその病と切っても切り離せないものだったそうです。
母の八重の回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。
体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたそうです。
大喀血があり医師の診断は「肺結核」と診断。
当時の結核は不治の病であり、、正岡子規は死を意識して生きていくようになります。


子規の遺髪塔(たぶん)
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正岡家代々の墓(たぶん)
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千代の富士が来てたみたい。

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正岡子規の病を大きく進行させたのは
日清戦争への記者としての従軍で、帰国途上の船中で大喀血して重態となり
そのまま神戸で入院、須磨で保養した後松山に帰郷し
当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。
この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり
当初はリューマチと考えていたが明治29年、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。
床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず
やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが明治32年夏頃以後は
座ることさえ困難となり、この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで
寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、
病床を訪れた高浜虚子河東碧梧桐伊藤左千夫長塚節ら後進の指導をし続けた。
碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作り
子規はそれを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも伝わっています。


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