【坂の上の雲ゆかりの地】
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松山市といえば日露戦争を救った秋山兄弟の出身地
この兄弟がいなければ日本の歴史は変わっていたのは間違いない
弟の真之(さねゆき)は日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅するという
奇跡に近い勝利を導く作戦を立案し
兄の好古(よしふる)は世界最強のロシアコサック騎兵と互角以上に戦い
中国大陸で戦略機動を唯一行った司令官でした。
 
 
阿部寛が好演でしたね。
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日露戦争
大国のロシアと小国である日本の戦争・・・・・
陸と海で日本が勝利するなど
世界のほとんどの人間が想像していなかったはずです。
ルーズベルト(後のアメリカ大統領)は
数少ない日本の勝利を予見した人物といわれていますが
そのルーズベルトですら
太平洋戦争開戦時、日本海軍の実力を過小評価していました。
日本の太平洋戦争の破竹の大進撃・・・・・
国力の限界を超えての無謀な作戦範囲
日清・日露戦争と大国に勝利し続けた日本は慢心による組織不全に陥っており
先人たちの財産であった精神性(自己より国を優先させる勤勉さ)を
都合の良い言い訳にして超大国アメリカと戦うことになります。
そりゃ勝てるわけがない・・・・
戦記物ではよく【実は日本は強かった!】みたいな文献が散見されますが
そりゃ日本軍の兵器、兵士の質は世界最強クラスでした。
それはまず間違いない。
 
しかしそれを運用する偉い人たち
政治家や高級軍人があまりにも愚か過ぎた・・・・・。
日本軍は日露戦争の奇跡の勝利によって
自らその成長の歩みを止めたのだとさるるは思っています。
(あくまでさるる史観だけどね?)
 
 
秋山好古
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太平洋戦争は軍神だの神風だの
そういうのが当たり前に叫ばれるようになって
精神性を多分に加味した現実とはかけ離れた作戦を立案したり
神風特攻隊を組織化した軍隊なんぞ、すでに軍隊ではないわけで・・・・
(神風特攻隊員には最大の敬意を表しますが)
日露戦争時の旅順港の閉塞作戦の時も【決死】はあっても
【必死】の作戦は許可されませんでした。
若い頃、どこで日本海軍は太平洋戦争を間違ったのだろう?と思いましたが
太平洋戦争を間違ったのではなく
それ以前に道を間違えてしまったのでしょうね。
 
さらに余談
日露戦争は日本の軍事のみならず政治も成熟していました。
戦争を避けようと極力努力し
それが避けられないとわかるとイギリスと同盟を結び
反ロシア勢力に資金援助を行い内乱を誘発
世界を味方につけるようにメディア戦略にも長けていました。
兵士同士、軍艦同士の戦いに勝ったわけだけではなく
むしろ政治が日本をギリギリのところで救いました。
 
慢心の太平洋戦争の政治家
無能な現代の政治家に
日露戦争当時の外交を見習えと主張したい。
 
 
余談ここまで
 
 
秋山好古の墓は道後温泉の近くにあります。
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1年前に訪れた時に不覚にも行くのを忘れていた・・・・。
帰りの高速道路で気づいたんよね
それを1年後にリベンジを果たそうとしたんや。
んでiPhoneのナビで秋山好古の墓を検索したら道後温泉の住宅街へ
さらに山の中に誘導されていくんよ
いくらなんでもこりゃおかしい、って調べ直したら温泉街のすぐそばにあった。
ほんまiPhoneの地図ナビは信用ならんのう・・・・・。
観光地図を見ればすぐわかるよ。
 
 
もう夕暮れになっていた。
(ネコの糞だらけで臭かったことを思い出す景色なん。)
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あと70歩
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秋山好古の墓
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日露戦争後、秋山好古は愛媛県松山市に戻り
私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長を死去の半年前まで務めます。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に
 
秋山好古の生涯の意味は
満州で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている
 
こう賞賛されたそうですが
秋山好古は若い頃は教師になりたかったと言われており
(お金がなくて断念せざるを得なかったらしい・・・・。)
教育者としての教育思想は現在も日本教育の基本として継承されています。
以下、wikiから抜粋です。
 
秋山は社会的集団教育(普通学校教育)の目的を
21世紀の現在にも通じる「個人の確立(独立)による社会(国家)の確立(独立)」
「個人の生活安定による個人の確立」「個人の生活安定のための個性(適性)の見出しと育成」と考えており
実学、勤労を重視し、生徒個人の人格形成、そのための個性・適性を見出して育てることに徹し
その実践として毎日、早朝から校門に立ち
登校してくる生徒ひとりひとりに挨拶をする、よく生徒を誉め、誉めるのと同時に
字をきれいに書きなさいといったことなどを丁寧に指導する
いつも微笑みをたたえて生徒の様子を眺めている校長であった。
2019年現在も続いている日本の高等学校教育の重要な基本部分を構築した1人が秋山であり
教育界でも猛将となった秋山の功労もあって
その後の太平洋戦争、日本の敗戦と占領、学制改革によっても
日本の中等学校教育はその軍国主義的な内容を除いただけで温存され
日本の各中等教育学校の伝統文化がそれぞれの新制高等学校に継承され、現在に至っている。
 
 
地酒にもなっています。
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騎兵学校の教官時代のエピソード
学生たちに騎兵を教育する際に秋山好古は教室のガラスを拳で叩き割り
血だらけになった拳を生徒たちに見せて
「騎兵戦術とはこういうことだ。」と伝えたことがあるそうです。(痛)
騎兵とはその機動力で長距離偵察などの任務もありますが、戦闘が始まれば
その機動力で戦線を突破する役割を持ち
騎兵の防御力の低さから大損害を覚悟せねばならぬ兵科でした。
 
昭和5年、糖尿病からの心筋梗塞で亡くなり
葬儀には日本赤十字社社長の徳川宗家16代当主公爵徳川家達も参列しました。
軍神だの猛将だの神格化される秋山好古ですが
フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にお使いを頼まれたのに
お使いの途中で電車内において酒を飲み過ぎて、居眠りした揚句に
置き引きにあっちゃうようなお茶目な人物だったそうです。
 
 
松山城のそばの生家に銅像があります。
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