【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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適塾の後編です。
官軍、幕府軍の両陣営それぞれの人材を育てた適塾。
じゃあ適塾って軍学校だったの?
というわけでもなく、蘭学(オランダ語)を基礎として
医学・天文学・物理学・測地学・化学を学ぶ日本最高の教育施設でした。
日本は幕府により鎖国政策でしたから外国(西洋)の書物といえば
オランダのものが多かったわけです。
オランダ語が読める適塾の塾生の中には軍事専門書を読み
当時世界最先端の軍事理論を身につけた塾生もいました。


官軍の天才司令官

江戸幕府の重鎮、函館戦争の陸軍総司令官


学問の入口は医学でしたが
知識があるということで両陣営(官軍・幕府軍)
それぞれに抜擢されまました。
この2人はまた別の機会に記事にしていきたいと思います。
大村益次郎を訪ねる旅はすでに終わっていて
岡山~伊予宇和島の記事は早い段階でしていきたいと思います。
大鳥圭介は・・・・・来年ぐらいにヒストリアしようかな。


適塾
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適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり
「○」・「●」・「△」の採点制度を導入して3カ月以上最上席を占めた者が上級に進みます。
こういった成績制度の発案や採点制度は福澤諭吉が継承し
初期の慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれています。
当時、日本最高の頭脳集団だった適塾。
成績最優秀が塾頭になりますが、4代目が大村益次郎 、10代目が福澤諭吉
福沢諭吉ってお札になってる人やんね?
さるるは【学問のススメ】の人ぐらいの認識しか無かったんですけど
バリバリ幕末維新ヒストリアの人やったん。(驚)
また大分県中津市の記事を引っ張り出そうと思っちょります。



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塾生たちが盛り上がって
柱を刀で斬りまくった跡が残っています。(乱暴やな)
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この部屋で塾生たちは寝起きしました。
成績が優秀なものからいい位置で寝れたそうです。
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徹底的な競争主義でこそ優秀な人材が育つ
現在の日本の教育とは相反するところがありますね
さるるはそういう競争社会で弾き出されたタイプの生徒でしたが
競争主義こそが真理だと思っています。
それが人間の本質であろう、そうさるるは思うんですよね
ホンマ競争社会でひどい目にあったよ。(笑)



ヅーフ部屋
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【ヅーフ部屋とは】
ヅーフ」(オランダ日本語辞典)と呼ばれていた
塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には
時を空けずに塾生が押しかけ
夜中でも灯が消えたことがなかったという部屋です。
新しいものを勉強するにしたって
まずは蘭学(オランダ語)ができなければ話にならなかったのです。



適塾の一番偉い人
緒方洪庵
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医師蘭学者で大坂に適塾を開き、人材を育てる。
日本の近代医学の祖といわれる。
幕府のの度重なる要請により(本人は行きたくなかったらしい。)
奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し
歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。
(ちなみに手塚良仙って漫画の神様【手塚治虫】のひいおじいちゃんにあたります。)
江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。(享年54)


適塾は累計3000人もの生徒が学びました。
その生徒たちの面倒をよく見たのが緒方洪庵の奥さん(八重)と
夫婦二人三脚で適塾を経営しました。
福沢諭吉は「私のお母さんのような人」と語ったそうです。
(奥さんのヒストリアは先日に実施済み!)


幕末から明治へ
情熱に燃える若者たちがこの場所で勉学に励む
各分野で成功したり
敵味方同士になってしまったり・・・・適塾ってそういう
幕末維新青春浪漫が詰まった場所やね。
そう思うと胸が熱くなるよ。


※ 適塾は現在の大阪大学の前身にあたり
   その管理は大阪大学が行っています。