【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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幕末において天皇(天子様)を味方にすれば
正義の軍隊として戦うことができ、それに敵対するということは
すなわち逆賊として歴史に名を残すことになります。
薩摩・長州の働きかけで天皇の軍隊、官軍となった薩長軍に対し
徳川慶喜は抵抗せずに蟄居してしまいます。
官軍と幕府軍の戦争・・・・・戊辰戦争以前、【薩長と徳川慶喜】の間で
高度な政治が展開されていたのです。
結果的には徳川慶喜は政治に負けたということなのです。


徳川慶喜が能力的に劣っていたのか?
さるるがなぜ【薩長と徳川慶喜】という表現・・・・。
組織と個人を対比させたのか


15代将軍 徳川慶喜
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徳川慶喜って幕府で嫌われてたん。
だからあんまり協力してくれへんわけでね、だから徳川慶喜って
薩長と幕府を同時に政治的旋回をしなきゃいけなかった。
そもそも徳川慶喜って賢いから将軍になってもいいことない、って理解してたん。
だいたい薩摩だの水戸だの徳川慶喜に将軍になるように斡旋しといて
時流が変われば袋叩きやもんね?ひどい話だよ。
だから徳川慶喜は最後の最後まで薩摩を許さなかったそうです。
後年、明治天皇から「許したるわ。」って言われたけど
割と淡々としてたらしい。当たり前だよね。


んで今回は徳川慶喜のその後です。
大政奉還新政府軍への江戸開城を決断した偉大な将軍・・・・・。
そうさるるは思っているわけです。
戦力的には官軍よりまだまだ上回っていた幕府軍ですし
切り札ともいえる旗本八万騎は太平の世で役立たずではありましたが
洋式軍隊も整備され、海軍も圧倒的であり
勝海舟、大鳥圭介、榎本武揚など人材も豊富でしたが
これ以上、日本国内で内戦が続けば
中国大陸のように列強の餌食になることは明白だったのです。
もちろん官軍と戦うということは逆賊
朝敵の汚名を着せられたくなかったことも大きいと思います。
大政奉還という決断は日本史上、稀にみる英断であり
徳川慶喜が戦争をしたがっている薩長に先手を打つ、最後の政治活動でした。



戊辰戦争後、謹慎を解かれた徳川慶喜は
紆余曲折を経て静岡に移住します。
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現在は料亭になっています。
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明治時代になってからの徳川慶喜は
潤沢な隠居手当を元手に
写真・狩猟・投網・囲碁・歌謡など趣味に没頭する生活を送り
静岡の人々から親しまれる一方で
旧幕臣の訪問を受けても渋沢栄一など例外を除いてはほとんど会おうとせず
共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で
「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかったそうですが・・・・。


やりたくなかったけど将軍に担ぎ上げられて
それでもなった以上は一生懸命に日本の将来のことを考えて頑張って
最初から敵だった長州はともかく、途中で裏切った薩摩に対しては
いつまでも許さじ、という感情を持っていたそうです。
そうなると西郷隆盛も大久保利通も
さるる的にはあんまり好きではないんよな~・・・・・。





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