【真田丸ゆかりの地】めぐり
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真田家と伊達家の関係は深い。
真田幸村の死後、真田幸村の幼い息子と娘は伊達家に匿われ
仙台真田家として残っていくことになります。



伊達仙台藩の親戚
伊達宇和島藩をご存知ですかな?
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1614年、つまり関ケ原の戦いから14年後・・・・・。
伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ
宇和島藩が正式に成立しました。
意外に知られていないのですが、支藩というものが存在し
遠く離れた土地や近くに敵対・牽制しうる勢力を支藩として配置することで
有力な外様大名(徳川家と縁の薄い大名)のチカラを削ごうとしました。
ようするに江戸幕府はチカラのある伊達家を警戒しており
あらぬ疑いをかけて仙台藩を潰そうと画策すらしますが
伊達政宗の機転でそれを回避しました。
江戸幕府250年の歴史はそういう自己保身のために
あらゆる手を使います。
そして思惑どおり、藩(本家)と支藩(分家)は対立するのです。
うーん、人事とは功名なものですなぁ。


過去に何度も強調しとるけど
支藩として別れた伊達宇和島藩からは討幕の優秀な人材が輩出し
西郷隆盛を、官軍を勝利を導いた大村益次郎もその一人です。
(大村益次郎はもともと長州藩出身)
伊達宇和島藩は愛媛県宇和島市!この歴史ヒストリアも近日やります!



伊達政宗と真田幸村のツーショット
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稀代の歴史小説家、司馬遼太郎
「鋼鉄のドンキホーテ」を愛してくださる読者なら司馬遼太郎の
「関ケ原」を読まれることを猛烈にお勧めします。
まあそれは余談でありますが
司馬遼太郎は伊達政宗を「詩才に関しては曹操に比肩する。」と表現しました。
伊達政宗が残した詩として有名なのが


馬上少年過
(若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが)
世平白髪多
(世は太平になり自分にも白髪が増えた)
残躯天所赦
(天に与えられた余生が残ってはいるが)
不楽是如何
(これを楽しまずしてどうしようか)
または
(楽しいとは思えないのはどうしたことか)
・・・・と2通りの解釈がある。



そんな伊達政宗の菩提寺
伊達政宗が眠る場所は仙台城から近いです。
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雅、ただひたすらに雅・・・・。
菩提寺というのに、この豪華絢爛さとはどうであろう。
ここを訪れるのは2回目だというのに
感動は新しくて、そして生々しさを感じる・・・・・。


伊達政宗はその名の通り伊達男。
戦乱が過ぎ去った後、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに
北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝大崎八幡宮瑞巌寺
鹽竈神社陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き
北上川の河口に石巻港を整備、現在までに至ります。



さすが伊達政宗
自動ドアとは恐れいったぜ
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これ懐かしいよね
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タタッタタタッタタタッタタッタ♪エッチラオッチラエッチラオッチラ♪
って聴こえてた小学生の頃・・・・・。



伊達政宗は詩のほかに、いくつもの名言も残しています。
その中でさるるがお気に入りなのは


【伊達政宗五常訓】

「仁」過ぎれば 弱くなる
「義」過ぎれば 固くなる
「礼」過ぎれば 諂(へつら)いとなる
「智」過ぎれば 嘘をつく
「信」過ぎれば 損をする



400年前も現代と同じ
人は人の世を生きにくいと感じていたのでしょうか
そう思うとますます歴史ヒストリア♪