【幕末維新ゆかりの地めぐり】
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明治維新の立役者といえば坂本龍馬!
というイメージが強いのですが、坂本龍馬が広く世に知られるようになったのは
司馬遼太郎の【竜馬がゆく】(1962年刊行)からで
坂本龍馬って近年、注目されるようになった人物なわけです。
それ以前では、明治天皇が見た夢として坂本龍馬が出てきて
日本海海戦、要するに日露戦争は日本が勝利すると坂本龍馬が夢で伝えた話が有名ですが
そのことでムーブメントが起こったわけではなく、やはり近年に注目された人物でした。
む、いきなり余談から突入してしまった・・・・。
 
 
 
西郷隆盛こそ
今も昔も明治維新の立役者として有名です。
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西郷隆盛を称賛する偉人が多く
西南戦争では日本人好みしそうな【判官びいき】もあるのでしょう
むかしから西郷隆盛は人気があります。
その西郷隆盛が仕えた薩摩(鹿児島)の島津家は関ケ原の戦いに参戦しています。
西軍に所属し、戦国時代最大の激戦に1600名程度で参戦しています。
島津家の兵は精強で実戦経験が豊富でしたが
小兵力のため西軍での扱いは小さく、関ケ原の前哨戦から西軍内でも軽んじられます。
なんせ兵力は少なくても島津家は実戦経験が豊富で作戦提案するけど
却下されたり、美濃墨俣での撤退において島津家は見捨てられたりしちゃって
関ケ原の戦いでは島津家はもうやる気ナッシングの状態でした。
そもそも西軍じゃなくて東軍につくつもりで鳥居元忠が籠城する伏見城に援軍に行ったのに
鳥居元忠が「家康様からおまえのことなんか聞いてないわい!」言われて
仕方なしに西軍に属するという最初っからケチがついてるわけです。
 
 
 
西郷隆盛を見出した島津斉彬(第28代・島津家当主)
織田信長、徳川家康、伊達政宗の血統を継ぐサラブレッド!
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関ケ原で伝説を残した島津義弘(第17代・島津家当主)
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関ケ原の戦いで島津家が滅亡していたら
西郷隆盛の活躍は存在しなかったはずであり、多少強引かもやけど
関ケ原の戦いは幕末維新に深くつながっていきます。
 
 
関ケ原の戦いが始まり
石田三成が出陣するよう島津義弘に命令するんやけど
「島津家は島津家で戦うからほっとけや?」って命令拒否しちゃう。
戦場でこんなやつおったら嫌やんなー・・・・でも
石田三成の人望の無さを象徴するエピソードの代表でもあります。
 
 
 
島津家の陣跡
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西軍の敗北が必至となり
島津家の兵力もわずか300名あたりになりました。
ここで島津義弘は切腹を覚悟しますが、やっぱり薩摩に撤退することを決め
伝説の敵中突破「島津の退き口」がいよいよ始まります!
 
 
 
夏休みを利用して毎年、敵中突破してるんやってさ。
(途中電車等をも利用)って記載にちょっと残念やったけどね♪
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挑戦した人たちの名前が石碑に刻まれてます。
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島津軍は捨て奸という、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし
それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いたため
甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になります。
後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり
井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや
徳川家康から追撃中止の命令が出されたこともあって
義弘自身はかろうじて敵中突破に成功、薩摩に逃れることができました。
その時、島津家の兵士は80名ぐらいしか残っていなかったそうです・・・・・。(壮絶)
 
 
 
そしてここで
【おんな城主直虎ゆかりの地】
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井伊直政は島津の追撃戦で反撃されて鉄砲に撃たれて
その傷が原因で3年後に死んでしまいます。
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関ケ原の戦いから250年後・・・・・。
島津斉彬と井伊直弼が思想的に対立していくのも因縁ですな。
ちなみに桜田門外の変で井伊直弼は暗殺したのは
有村次左衛門という薩摩藩士でした。
 
 
島津家と井伊家の因縁
ん~・・・・歴史ヒストリアっておもしろいなあ!