【坂の上の雲ゆかりの地シリーズ】
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さるるはこの【坂の上の雲ゆかりの地シリーズ】を
さるる自身が記事をつくっているのにもかかわらず
すごく楽しみにしていましてね、2年もネタを温めていたんですよ。
気力が充実してからシリーズ化しようとね
でも2年が経過して、松山市に2度目の旅行に訪れた時にこのままね
記憶が風化することに戦慄したんよ。
 
 
日本人が世界で生き残るために
21世紀では考えられない程の帝国主義の狭間で小国が、まことに小さな国が
生き残ろうと必死に突き進んだ時代に生きた日本人たち
胸が熱くなりますよ、いまの日本人ではまず理解できんでしょうね。
ここからはさるる個人の見解ですが
日清戦争、日露戦争の神がかり的な勝利、それに続く第1次世界大戦でも戦勝国となり
日本軍部および世論は慢心し、盲目となり悲劇を引き起こします。
そして大東亜戦争後のGHQの占領政策・・・・・。
明治時代のようなメンタルを取り戻すことなんて不可能ではないでしょうか?
まあ現在が平和ってことは喜ばしいことですけど。
 
 
 
ミラクルな勝利が続いた日本軍でしたが・・・・。
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しかし、よく調べてみると
日本軍の体質的欠陥が散見されます。
もちろんさるる個人的見解ではありますが、その欠陥とは
 
 
①官僚的であり、忖度が過ぎること。
②補給(兵站)を軽視し過ぎたこと。
 
 
これは現代日本にも通じるものがあります。
本当に歴史を学ぶと現在が見えてくると思います。
 
 
①官僚的であり、忖度が過ぎること。
戦争は常に流動的であり、柔軟に方針を変えなければないこともあります。
日露戦争で代表的な例を挙げると旅順攻略、有名な203高地の戦いです。
軍令部の無理な要求を忖度したり、現場の官僚的縦割りの指揮系統の混乱もあり
約1万5000人が戦死し、約4万4000人が重軽傷を負うという
近代戦では考えられない損害を日本は出しました。
当時、配備され始めた機関銃のロシア陣地に生身の日本兵が突撃を繰り返すという
無謀かつ無意味な戦法を何度も実施した際も責任の所在が曖昧で
曖昧もなにも責任の所在はハッキリしているんですが・・・・・事態は最悪の結果へ。
ちなみに軍隊での常識として部隊の30%損失は戦闘力の喪失とされ
日本軍約5万1000人(第一次攻勢時点)でその後も戦力補充があった人数を入れて
戦死が1万5000人というのはギリギリの勝利でした。
砲台の設置もさっさと設置すればよかったものの
将兵のメンツにこだわって遅れに遅れ、その間も日本兵は死に続けていきます。
司令官の更迭も忖度につぐ忖度で
遅れに遅れて無謀な戦法が続き、やはり日本兵は死に続けます。
 
 
余談ですが大東亜戦争(太平洋戦争)において
アメリカ軍が日本軍の将兵を調べた時、軍学校の成績表の序列と
軍組織の序列がほぼ同じだったことに驚いたそうです。
日本には愚将が多いとされるのはそのせいかもしれません。
そしてそんなことまで調べ上げながら戦争していたアメリカって凄い・・・・・。
 
 
 
②補給(兵站)を軽視し過ぎたこと。
近代戦は消耗戦であり、特に武器弾薬が無ければどうしようもありません。
愚かなことに日露戦争が始まってから武器弾薬が足りないことに気づき
急造したり輸入したりしてギリギリ戦争を継続できました。
この日本軍の体質は日露戦後も変わることがなく
太平洋戦争では武器弾薬どころか食料さえも軽視され悲劇が生まれました。
「島にいて食うものがないとは何事か!」という愚将もいたそうです。
ちなみに自衛隊もこの流れを汲んでいるといわれており
装備性能はアメリカ兵器だから世界トップクラスなのですが、武器弾薬
その他の継戦能力が著しく低いと悪評だそうです。
兵器、兵力の整備には莫大な資財が必要ですが
それを維持するにはもっと資財が必要ということなのです。
日本のように少なく限られた資財では仕方がないかもですが・・・・・。)
 
 
 
ロシア捕虜収容所と計画された松山城へ。
リフト、ロープウェイ、徒歩のいずれかで天守閣へ向かいます。
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こんなとこにも
【坂の上の雲】の3人が!
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松山城の天守閣はけっこう遠いです。
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どっしりとした印象の天守閣
 
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ロシア捕虜が想定よりも多くて
ようするにそんなに大勝利するなんて思っていなくてですね
捕虜収容所が足りなくなったわけですわけど
この松山城の天守閣も捕虜収容所にする予定があったそうです。
(実際は使用されていないそうです。)
これだけで【坂の上の雲ゆかりの地】として認定するのはどうかと思いますが
松山城下で育った秋山好古、真之、正岡子規はきっとたぶん
松山城に行ったことぐらいあるでしょ!?(夢想)
 
 
 
 
 
ドラマでも記念写真撮ってたしね!(笑)
 
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豊臣秀吉の七本槍のひとり
加藤義明の築城した城なので【黒田官兵衛ゆかりの地】でもあるけど
それは2年後、つまり今年に行った画像で補完するとするよ。
んで、松山城を降りて少し車に行ったところに
 
 
 
 
【坂の上の雲ゆかりの地】じゃないけど
 
種田山頭火の終焉の地
 
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有名な俳人らしく、ここで庵を結び
余生を暮らしたという観光案内を読みながら素直に率直に
「うらやましいなぁ・・・・・。」と思いました。
けっこう好き勝手に生きた挙句らしいね、この種田山頭火って人。
俳人っていうから正岡子規と関係がないかな?
なんて思って調べたけど
関係がないからやはり【坂の上の雲ゆかりの地】には成り得ずでした。

 
 
【坂の上の雲ゆかりの地】はこちら
 
 
 
 
 
(おしまい)