【坂の上の雲ゆかりの地めぐり】
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愛媛県の松山市といえば【坂の上の雲】ゆかりの地です。
「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・・・。」から始まる
司馬遼太郎の原作を読み上げる渡辺謙がたまらんよね。
【鋼鉄のドンキホーテ】は司馬遼太郎のエッセンスが多分に入っているんやけど
このナレーションは一部さるるが改変して流用しています。
明治維新を青春と位置づけたら、不思議なほどリンクしていくんですよ。
え?なにを言うてるかわからんへん?だろうね?
 
 
 
 
 
 
 
明治維新後の日本っていうのは
列強からの圧力、侵略の脅威にさらされながら
江戸時代からの汚名をなんとかしようと必死にもがくんよ
猿真似と嘲笑されながらも西洋化へ突き進んで
農業ぐらいしかない日本が必死にね、軍事・経済・文化・法律・・・・・。
ちゃんとした国に認められようと特に軍事にチカラを入れ
関連して国際法に特に敏感だったのです。
(不平等条約を見直してもらうには一等国になる必要があった。)
明治の日本とは欧米列強に認められたくて
認めてもらわなければならなくて、前のみを見て歩いていきます。
相手はみんな自分より強い相手ばかりの中で
日本はどう振舞ってきたのだろう、それを知れば知るほどさ
 
 
そこになんかね
さるるの青春群像劇を重ねてみたらさ
【鋼ドン】が生まれたん。
 
 
 
白人至上主義に終止符を打ったのが日露戦争でした。
どれだけアジアが欧米列強に苦しめられてきたかを学ばねなりますまい。
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太平洋戦争(大東亜戦争)とは
ペリーの黒船にまで遡って考証が必要です。
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日露戦争において、日本のロシア捕虜の扱いは
他国に類を見ない寛容さであり、捕虜の妻が来日することを許可し
家まで与えて看病することを許可しているぐらいです。
これを武士道だと国際的に喧伝した形跡もあることから、これは武士道というより
「国際法を守る優等生な国ですよ」とPRしたかったのでしょう。
 
 
 
松山大学の近くにあるロシア人墓地
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お墓は全てロシアに向いているそうです。
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日本の捕虜の扱いは過剰なほどで
なかでも松山市では温泉や観劇すらも許していたんだそうです。
当時、松山市の人口が30000人、捕虜は4000人もいたんだから驚きです。
まあ日本人のお人好しは今に始まったことではないってことか。
以前に記事にしたけど
ロシア人捕虜と日本人看護師の悲恋も珍しくなかったかもしれないですね。
 
 
 
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この墓地にミハイル・コステンコ中尉の名が無いことを願うばかりです。
でも二人の愛のコインが井戸に投げ捨てられていたってことは
どっちにしても2人は結ばれなかったんやね、悲しかったやろな。
どんな気持ちでコインを投げ捨てたんだろうね。
ほんまに二人の気持ちを考えたら胸が痛くならへん????
目頭が熱くなっちゃうよ。
 
 
 
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松山市の捕虜の扱いは
前線のロシア兵にも伝わっていたようで
「マツヤマ!マツヤマ!」と叫びながら降伏してきたそうです。
それはそれですごい話やね。
これって歴史ヒストリアの醍醐味やんな~。
 
 
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(おしまい)