姫路が生んだ天才軍師
【黒田官兵衛】
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/b5/bf/j/o0620043514546455853.jpg?caw=800)
黒田官兵衛ゆかりの地
大分県で終了したかと思われましたが、ゆかりの地となると
これどこまでが【ゆかりの地】なのか
その判断に困るところではありますが、それはさるるの独断です。
だって【まっすぐ、歩く。】はさるるのブログやからね!
共に秀吉を支えた黒田官兵衛の盟友
【蜂須賀小六】
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/98/2a/j/o0600072614546455855.jpg?caw=800)
秀吉の最も古い部下・・・・・っていう説もあるけど
蜂須賀小六に秀吉が仕えていた、という説が近年は濃厚であります。
(秀吉の父親が蜂須賀小六に仕えていた。)
その後、秀吉が信長のもとで出世していき、秀吉の与力(助っ人的な存在)として
やがて秀吉の直参(直属の部下)となっていきます。
いろんな大河ドラマで蜂須賀小六といえば【盗賊の親分】としてイメージがあり
けっこうコワモテの役者がすることが多いのですが
盗賊の親分だったというのはこれ・・・・・・まったくの創作でして
蜂須賀城の城主の息子として生まれています。
んで、蜂須賀小六・・・・。
黒田官兵衛とともに調略にも大活躍しています。
各地を転戦、その領地も転々としていきますが最終的には
四国の勇、長曾我部元親を降伏させた功で阿波(徳島)を拝領し、徳島城を築城し
明治時代まで蜂須賀家は脈々と続いていきます。
現在は石垣など一部しか残っていません。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/7e/0b/j/o0523039214546455859.jpg?caw=800)
そんな蜂須賀小六は黒田官兵衛とは親戚になります。
蜂須賀小六の娘(糸姫)と、黒田官兵衛の息子(長政)が結婚することになりました。
もうコレ、黒田官兵衛ゆかりに間違いがない!
ちょっと強気な女性でしたね。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/a6/eb/j/o0726046414546455866.jpg?caw=800)
でも本当は繊細な女性として描かれていました。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/94/b7/j/o0940062414546455872.jpg?caw=800)
二人の間には娘が生まれます。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/42/ec/j/o0720047814546455879.jpg?caw=800)
だがしかし・・・・時代は流れ秀吉はすでにこの世に無く
徳川家康が政権簒奪を目論み、政略結婚を黒田長政に呼びかけます。
「養女(栄姫)と結婚せん?」「蜂須賀の娘なんて離縁しろよ?」
「秀吉の重鎮の娘よりコッチ(徳川家康)の養女と結婚した方が将来的に・・・・・。」
黒田長政は乱世を生き残るために徳川家康との関係を深めなければなりません。
糸姫は一方的な理由で離縁させられ・・・・・阿波(徳島)へ戻ります。
関ケ原から45年後、この阿波の地で亡くなります。
現在は市民憩いの公園として
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/f0/ab/j/o0523039214546455882.jpg?caw=800)
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/e7/9a/j/o0523039214546455888.jpg?caw=800)
蜂須賀家正の銅像
(蜂須賀小六の息子)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/e5/fe/j/o0523039214546455893.jpg?caw=800)
過去は蜂須賀小六の銅像だったそうですが
太平洋戦争中に金属供出で溶かされてしまったそうです・・・・・。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190822/01/sawada0906/51/09/j/o0475060014546455898.jpg?caw=800)
この一方的な離縁、蜂須賀家にとって許しがたく
黒田家と蜂須賀家の127年に渡る「不通大名」のきっかけとなりました。
江戸城で両家がすれ違っても挨拶もしなかったそうです。
離縁が1600年、蜂須賀家と黒田家が和解したのが1727年でした。
なんと深い因縁だったのでしょうか。
全国津々浦々
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