姫路が生んだ天才軍師
【黒田官兵衛ゆかりの地めぐり】
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【軍師官兵衛】の関ケ原の戦いの描写
たしか栗山善助が手紙を読み上げるだけだったと思います。
【真田丸】でもナレーションだけだで話題でしたね。
やはり日本人として関ケ原の戦いとは思い入れが強いと思いますし
でも真田幸村も黒田官兵衛も関ケ原にはいませんしね
仕方がありませぬなぁ。



・・・・・・・え?
じゃあなんで【黒田官兵衛ゆかりの地】なんだって?




官兵衛を陥れようとした石田三成とか
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互いにも認め合ったライバル安国寺恵瓊とか
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お人好しのお調子者だけど豪勇
母里太兵衛に大事な槍を取られちゃった福島正則とか
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新しき時代を拓く徳川家康もいるし
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そしてなにより黒田官兵衛の息子
黒田長政
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黒田長政・・・・・・・。
大河ドラマ【軍師官兵衛】では小者感が満載だったけど
最終回の何回か前に関ケ原で調略で活躍したからってねえ・・・・・。
「息子に超えられたな、官兵衛・・・・・。」って家康が言うてたけど
とても納得がいかんわなぁ。(笑)




【黒田官兵衛ゆかりの地めぐり】スタート!





徳川家康の誘導によって
戦場は大垣城から関ケ原へ!
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【天下分け目の関ケ原】

徳川家康を総大将とする東軍と毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍でした。
東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は「豊臣家に仇為す者を成敗する」という豊臣家の家臣同士の成敗合戦の建前をとり、豊臣家もそれを表向きは静観の立場を取りましたがホンネは石田三成に勝ってほしかったわけです。
この戦いは実質的に徳川家康の覇権を握るための戦いであることは明らかでした。

一方、それは黒田官兵衛にとっては天下制覇の絶好の好機でしたが・・・・・。
東西合わせて20万近い兵力が激突した戦国最大の戦だったにも関わらず、西軍は裏切りが続出。
この史上最大の戦いはたった6時間で決着がついたのでした。

これは黒田官兵衛も想像できず、天下制覇の夢は潰えることになったのです。
関ケ原の戦いを早く終わらせた要因が実の息子
黒田長政の調略であったことは皮肉以外の何物でもありません。





明治時代、陸軍の指導者となったドイツ軍人メッケルは
配置図を見せられて勝敗を聞かれ
「西軍の勝利したんやね?」って即答したのは有名な話。
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こんなけ裏切ったらねえ。
これ以外に島津、長曾我部は様子見てるだけだったし・・・・・。
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石田三成の人望のなさ
あまりにも合理的な戦略、というよりモノの考え方
それが敗因だったと司馬遼太郎の小説には描かれていますが
今夏に公開される司馬遼太郎の映画【関ケ原】では
どうなんでしょうねぇ、今から楽しみです♪
石田三成が悪者に描かれがちですが
豊臣家を守らんがため、むしろ正義を貫いたのは石田三成なのは間違いない。
【軍師官兵衛】でもほぼ悪役でしたけどねぇ。
小説【関ケ原】では石田三成が正義を貫こうと、人間に不器用な様を悩み
島左近が見守りつつ殉じていくというような内容です。




岡田准一の石田三成
どうみても石田三成が黒田官兵衛に見えるん。




それはさておき
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小早川秀秋(西軍→東軍)の陣取った山
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タクシーの運転手さんが
「あの山・・・・えっと名前なんだっけ、裏切り者がいた山だよ。」




小早川秀秋・・・・400年たっても
裏切り者って言われてしまうあたり、すごいなぁと思いました。
(秀吉の親族なのにねえ。)
ちなみに小早川秀秋は若くして関ケ原の合戦後、精神を病んで死亡したという説や
若い頃からのアルコール中毒で肝硬変で死亡説があります。





石田三成の本陣跡
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石田三成の本陣跡から関ケ原を一望できます。
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正面の小山は桃配山
徳川家康の本陣があった場所です。(近い!)
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関ケ原って、思った以上に狭い平地でした。
ここに20万人が対峙して戦ったなんて、すごい風景だったんでしょう。
映像作品で登場する関ケ原とは違いましたねえ。
これも旅行の醍醐味ですね。
実際にに行ってみないとわからないことがありますもんね。


さて次は黒田長政の本陣跡を探します。
時間がないのでタクシー移動です。




ちなみに関ケ原の黒田長政
強風が吹いたらムチウチになりそうな感じやね。
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ゴモラは黒田長政の兜がモデルなんやってさ。
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ここでええん?みたいな竹林を登るとあります。
竹中重門と一緒の陣だったみたいですね。
タクシーの運転手さんは「黒田長政の陣?」ってな反応でした。
調べて連れて行ってもらいました。





スマホの電源が切れたからWikipediaから画像拝借
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関ケ原の戦いは黒田長政の調略によって大勝利。
徳川家康が黒田長政の手を取って、その功を褒め讃えましたが
黒田官兵衛はその話を長政から聞いて
「おまえそれどっちの手やった?」って問い、「右手でしたけど?」って長政が言うたら
「なんでもう片方の手で家康を刺さへんかったんど!」って言ったそうです。
そんなんしたら長政(松寿丸)、死んでまうやんね・・・・・・。




黒田長政と仲が悪かった石田三成は捕縛
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石田三成のその後・・・・・・。
逃亡の末、捕まった石田三成は大津城の城門でさらし者にされます。
通りかかった福島正則は石田三成を罵ります。
福島正則は秀吉に我が子のように育てられたのに、東軍として戦いました。
そこを石田三成は福島正則に痛烈に批判しました。
福島正則は返す言葉もなくその場を立ち去ってしまいます。
そして黒田長政・・・・・・。



戦の勝敗は天運とはいえ
五奉行の筆頭と称された貴殿がこのような境涯になろうとは
かえすがえすもご無念であろう。



羽織をそっと、石田三成にかけてあげるのでした。
司馬遼太郎はこの感動エピソードを「黒田長政の関ケ原最後の策」
たしか、そう書いていたと思います。
忘恩行為を暴かれ、男を下げるのを防ぐためだった、といいう説。
ちなみに福島正則は関ケ原の戦い後・・・・・。
なんだかんだと徳川家康によって窮地に追い込まれていきます。




関ケ原・・・・・・。
またいつか、ゆっくりと時間をかけて再訪したいです!




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